小宮幸治が、須山寿佐美と待ち合わせたホテルのロビーに着いた時、もう夜の八時をだいぶ回っていた。
西松部長と寺木課長との議論は、結局「後日再検討」というお役所式の結論で終わったが、その時すでに、約束の七時を一時間も過ぎていたのだ。
高い天井からやわらかな光が降る広いロビーの中に、須山寿佐美の姿があった。
濃紺のスーツに包まれた彼女は、派手な服装の男女が行きかうロビーのなかで、熱帯魚の水槽にまぎれ込んだ若鮎のように思えた。
「もういらっしゃらないのか、と思ったわ」
寿佐美は、時計を見る格好をしてみせた。
二人は、一ヵ月ほど前に見合いした仲だ。最初、小宮はこの縁談にあまり乗り気ではなかった。有名私大の経済学部を卒業してドイツ留学までした才女というのが、自分の抱いていた�女房�のイメージに合わなかったし、幼い頃実母を失い継母と暮してきたという、家庭環境も気になった。そして何よりも、�不動産屋の娘�というのがいやだった。寿佐美の父、須山源右衛門は、数百億円といわれる巨富を築いた新興不動産業者なのだ。
だが、会ってみると、寿佐美の印象は、小宮の想像と全く違った。
長身と白い顔が、小宮の好みに合ったし、化粧も服装も思いのほか地味だった。
それから一ヵ月、二人の交際は淡かった。今日がまだ二度目のデートだ。仕事に追われる小宮には、時間の都合がつかなかったからだ。
「お食事に行きましょう。いいお店発見したの。美味しくって、感じがよくってそれにとっても安いのよ」
二人は寿佐美の運転するジャガーで、彼女のいうレストランへ行った。六本木の繁華街のはずれにあるその店は、確かに感じはよかった。運ばれて来たワインが心地よく冷え、ボロニアハムとメロンの料理も美味かった。だが寿佐美が強調したほどには安くはなかった。
店内は、ルネッサンスの建築や彫刻をペン画に描いた壁紙がめぐらされ、飾り棚に、ジャコモ・マンズーやマリオ・マリーニ、エミリオ・グレコといった現代彫刻家の作品が置かれていた。
寿佐美は、それらの芸術作品を話題にした。とくに、彼女は現代芸術の方に興味があるようだった。だが小宮は、それについて、大した知識も関心も持たなかった。北陸の田舎町で育ち、東大受験に馬車馬的勉強をし、通産省に入って残業続きの歳月を過ごした彼は、マンズーやマリーニの彫刻どころか、ビートルズの音楽にも、アンディ・ウォホールの造形にも、ギンズバーグの詩にも、無縁だった。小宮は生返事を繰り返すほかなかった。
小宮は、自分自身の話題を捜した。だがどうしたことか今夜は適当な話題が思い当たらない。仕方なく小宮は、石油の話をした。しかし、それはデートの話題としては全く不適当であった。
「小宮さんて、やっぱりお役人ね、こんな時にもお仕事の話なんですもの……」
石油の話に退屈した寿佐美はいたずらっぽい笑いを含んでいった。それが小宮を一層焦立たせた。
「それじゃあ、石油が入って来なくなったら、日本はどうなると思う」
小宮は、思いついたままに、今日の昼、寺木課長から聞かれたのと同じ問いを試みた。自分のはじめた話をいくらかでも正当化し、おもしろくしたかったからだ。
「そうね、ジャガーは動かなくなるし、タクシーも駄目ね。私も電車に乗らなくっちゃならないわ」
寿佐美はおかしそうに、身体を揺すった。
この答えに、小宮は失望した。そして、終戦直後に逆戻りでしょうね、と彼がいったのに対して見せた、寺木の表情を思い出した。
〈ひょっとしたら、寺木と俺の間には、とてつもなく大きな認識の差があるのかも知れない〉
と、小宮は心の中でつぶやいた。