金曜の午後、小宮は寺木に呼ばれた。
「油減調査の東京側の主査は君に頼むよ。全力投入して欲しい」
「油減調査」──昨日の大阪での会議で「石油輸入大幅減少時の影響とその対策に関する調査」にこんな略称がついていた。
通産省内部からは、大臣官房、基礎産業局、産業政策局、生活産業局から、各一人ずつ、いずれも小宮より三つ、四つ若いエリート事務官または技官が加わる。さらに、農林省、運輸省、経済企画庁からも各一人ずつ参加することになった。
たった一日半でこれだけのメンバーを集めたことに、小宮は驚いた。
「ところで肝心のエネルギー庁からもう一人、君と一緒にやってくれる者を入れたいけど、誰がいいかな」
「安永博ですね」
小宮はためらわずに答えた。
公益事業部総務課課長補佐の安永は、小宮と同期で通産省に入った仲間だから気心も知れている。安永は新婚早々だったが、小宮も寺木も気にしなかった。彼ら中央官庁のエリート官僚の間には、家庭生活などは仕事の余白でしかない、という考え方が、ほとんど本能になっているのだ。
ちょうどその時、関西経営協会から、打ち合わせに、明日の午後やって来るという連絡が入った。土曜日の午後に来る、というのも意外だったが、作業が想像もしないスピードで進みだしたのを、小宮は感じた。
翌日の二時過ぎに、関西経営協会からは二人の担当者が来た。
一人は、三日前の会議の時末席にいた�キト�と呼ばれた若い女性、もう一人は赤ら顔に獅子のたて髪を思わせる長髪の四十男だった。
「京都大学の雑賀正一先生です」
若い女性は、同行の男を紹介した。
雑賀正一は、いま、マスコミにも売れているが、学問的業績も十分にある新進の経済学者だ。産業連関表を、個人消費や社会需要の内部構造にまで拡大し、循環示表化した拡大投入産出モデルの研究では、海外でも高く評価されている。
「大変な仕事ですな」
雑賀はエネルギッシュな体躯から、それに似合った太い声を出した。
「私もこれまでの研究を一度具体的な問題に適用してみたい、と思ってた時なんで、夏の学会発表を取り消して馳せ参じたんですわ」
開けっぴろげな表情で、いや味がなかった。
「東京での調査には鴻芳東京ビルの会議室をご利用いただきたい、とのことです。大阪の方も、鴻芳本社を使いますから」
若い女が、抑揚のない声でいった。小宮はこの提案に少々抵抗を感じないでもなかったが、寺木は、
「それはありがたい。今日の会議も早速、そこへ行ってやろうや」
と、それをあっさり受け入れた。
鴻芳東京ビルは、役所から近かったが、間口三間、奥行十間余りのみすぼらしい四階建のビルだった。そのうえエレベーターがなく、当てがわれた四階の会議室へは、狭い急な階段を昇って行かなければならなかった。しかし、会議室に入ったとたん、小宮は目を見張った。内装は貧相だったが、いろんな機器が壁際を埋めつくして並んでいたからだ。
テレビ電話が三台、それを拡大するITV(工業用テレビ)装置、テレックス、コンピュータの投入算出用端末機器、三軸グラフ解析器、それにはじめて見る電気仕掛けのグラフィック・パネル……。
「コンピュータのアウトプット・ディスプレーパネルです。これと同じものが大阪にもあり、同時に両方に映出できます。端末機器は大阪にある本体と直結しているので、計算はすぐできます」
女は手短に説明し、いくつかの機器をちょっと動かしてみせた。
〈これほどの装置はおそらく、大商社にもあるまい。鴻芳は、何のためにこんな装置を備えたんだろう〉
そんな疑問が、一瞬小宮の心をかすめたが、はじめて見る新式機器のかもし出すSF小説的雰囲気が、それをすぐ忘れさせてしまった。
女は、大きな鞄から取り出した資料綴りを会議机の上に並べた。半紙三十枚ほどを綴ったその資料には、活字のような四角い小さな文字と図表がぎっしり詰まっていた。
女は、前置きなしに説明しはじめた。
「調査の前提は、日本への石油輸入が平常の三割になった場合に置きます。これは現在、日本の輸入石油の、約八一%が中東アジア地区からのもので、そのすべてがホルムス海峡を通過している現状からみて、起こりうる可能性の相当に高い最悪事態だからです。調査の第一段階では、全国的な産業構造、需要構造ならびに社会条件から、全体モデルを作り、前述の場合の影響を調べます。次に、これを地域構造による偏差、季節偏差などを投入して具体化しますが、この場合、一つの影響が他に波及効果を持つことになるので、段階ごとに逆行列を展開しなければなりません。つまり、石油輸入が減少した日、正確には産油地域から日本向け石油輸出が減少しはじめた日になりますが、その日から毎日の変化を追究することになります」
このあと女は、全体モデルの概要や偏差算出モデル、逆行列式の考え方について一時間半ほど説明を続けたが、机の上に開いた分厚いノートを見て話し続ける姿は、教えられて来たことを懸命に暗誦しているようにも見えた。それは法学部出の小宮には、理解できない高度の数式と難解な術語にみちていた。
説明が終わった時、雑賀正一が質問した。
「こういう予測では、政府の対策の適否が大きく影響すると思うんですが、その点はどうします」
「この段階では政府は可能な最適の対策を採る、という前提で考えねばならないと思います。そうでなければ、特定の分野に破滅的現象が生じ、影響が無限に拡散してしまう恐れがあるからです」
「影響が無限に拡散するというのは……」
重ねて雑賀が訊ねた。
「つまり計算上の収斂がなく、無限拡散式になる、ということです」
「なるほど、それじゃこの影響予測のなかで政府の採るべき最善の政策も出てくるわけだ」
寺木が感心したようにうなった。
「まあ一応は……。でも、最善の対策と可能な最適の対策との間には、相当の差があると思いますけど」
議論はこのあと、情報偏差、つまり政府発表やマスコミなどの取り扱いによって変わる影響の大小や、外国の動向からの波及効果の問題へと進み、さらに具体的な資料収集やデータの限界などにも及んだ。いずれもこの調査の困難さを示すものばかり出てきた。
会議は三時間余り続き、調査の方針が確定した時には、午後七時をかなり過ぎていた。
一同は夕食を一緒にすることになったが、若い女だけは今日中に大阪へ帰りたいので、と断わった。
小宮は、彼女の身体には不似合な大型の鞄を持って、見送ってやった。女は黙って、誰にともなく軽く頭を下げ部屋を出ると、先に立って階段を降りた。小さな肩にかかった長い髪が小宮の目をとらえた。
一階に降りたところで、彼女は向き直った。
「あの……」
そういってから、小宮は次の言葉に窮した。
女は少し眉を上げ、かすかな笑いを含んだ目で、小宮を見つめた。街灯の光を受けた淡い褐色の瞳が、金色に光って見えた。
「名刺をいただけませんか」
小宮は、この女の名前すら、まだよく知らないことに気づいて、いった。
女は鞄の中から、少々くたびれた名刺を出し、少しはずかしそうに差し出した。角のとがった男持ちの名刺だった。だがそれを見た時、小宮は大いに驚いた。
鬼登沙和子という名前の上に、「理学博士」という小さな文字があったからだ。