午前九時から開かれた緊急閣議は、外務大臣と通産大臣の情勢報告を聞いたあと、短い討論と総理大臣からの二、三の指示を受けただけで、約一時間で終わった。
その後、関係各大臣は、それぞれ記者会見を行った。大臣たちの顔は、意外に明るかった。戦争がまださほど拡大した様子はない、という外務省の報告が、彼らを安心させたことも確かだが、何よりも国民に平静を保たせようという目的のポーズであった。
それは必要だった。一九七三年の第四次中東戦争が引き起こした石油危機で、モノ不足や物価狂騰が生じたことは、国民の記憶にまだ生々しい。「中東戦争再発」の一声で、買い溜め売り惜しみがまた発生する可能性は十分にあったからだ。
新聞記者会見に臨んだ長岡外務大臣も、この点を強く意識して、見解を述べた。
「今回の戦争は、一九七三年の第四次中東戦争よりも、その前の、一九六七年の第三次戦争、いわゆる�六日間戦争�だが、あれに似た短期決戦に終わると見られます」
これは、閣議に先立って行われた関係各省庁の連絡会議で、春日井外務審議官らが述べたのと同一見解だが、若々しい風貌とよく透る声を持った長岡大臣が語ると、一層自信のあるものに聞こえた。
石垣大蔵大臣は、国際金融界に与える影響について、
「いずれにしろ、日本への直接的影響は小さいと思われるので、政府としては欧州市場の動きを静観する」
と述べ、
「為替市場の閉鎖はいまのところ、全く考えていない」
と、いい切った。
なかでも威勢のよかったのは、海津経済企画庁長官だった。近代経済学に通じ、英語も堪能といわれる海津は、ジャーナリズムに人気のある政治家の一人だ。
「別に心配することはないよ。この前の石油危機だって、実態は大したことなかったじゃないですか。一部の悪徳業者が買い占め、売り惜しみ、便乗値上げで混乱を作り出したんですよ。それに消費者が乗せられて買い溜めに走ったから、まあああいう騒ぎになったわけでね」
海津長官は、歯切れのよい口調でまくしたてた。
「だから政府としては、買い占め、売り惜しみを断固として抑えていく。それだけですよ、政府としてやらにゃならんことは。それさえやれば、なんの心配もないんです」
記者団から笑いが洩れた。
「今日の閣議でもいったんだが、通産省や農林省など、物資担当の役所だけでは十分じゃない。府県や市町村にもきびしく監視してもらう。もし、不当な値上げや売り惜しみの事実があれば、直接私のところへ投書して欲しいですね。経企庁は、消費者行政、物価行政の元締めなんだから。私もそうだけど、経企庁って役所は、業者と癒着してないから、きびしくやりますよ」
与党内部の人脈・派閥の関係で、海津長官は、山本通産大臣には対抗意識を持っているのだ。
同じ頃、山本通産大臣も、大臣室で記者会見を行っていた。
「いまのところ、石油危機が生じると考える根拠はありません。主要産油国は参戦していませんし、石油戦略を発動するという動きもありません。仮に石油戦略が発動されても、アラブ諸国と友好関係を結んできた日本が、その対象となる可能性は少ないと考えられます。不幸にして石油戦略の対象となったとしても、現在わが国の石油備蓄は、かなり増大しているので、心配ない。とくに家庭用灯油は、製品在庫だけでも五十日分、それに備蓄原油から精製されるものを含めると約九十日分あるので、品不足あるいは値上がりの可能性はない、といえます」
山本通産大臣は、詳しい説明を黒沢エネルギー庁長官にゆだねた。
「現在の石油備蓄量は、平均消費量の六十五・七日分でして、前回の中東戦争発生時点、つまり 一九七三年十月末に比べると、約六日分多いわけです。石油備蓄量は、ご存知のように、精製段階や流通過程に入っている油も含まれているので、消費量の三十九日分くらいは精製・販売を円滑に行うためには不可欠ですから、純粋に喰いつぶしのできる量だけ比べると、前回が約二十一日分なのに対し、いまは二十七日分、三割ほど多いことになります」
黒沢はこの説明のなかに、二つの意味を持たせたつもりであった。一つは、�前回より六日分多い�という点であり、もう一つは�六十五・七日分の備蓄があっても本当に使えるのは二十七日分しかない�という点である。だがもう一つ、この説明には、大きな落とし穴があった。それは、すべてを「平均消費量」の日数分として語っていることだ。つまり石油の消費量には季節によって差があるので、平均消費量の何日分あるというのと、今日から何日間の消費分があるというのとにはかなりの差があることだ。これから迎えようとする冬は石油消費の盛んな時期だ。とくに、暖房用需要の多い灯油などでは、その差が著しく、平均消費量の九十日分は、これからの需要の五十日分あまりにしか当たらない。山本通産大臣がこのあと、楽観的な見解とは逆に、国民に石油消費の節減を強く訴えたのは、こうした事情があったのだ。
通産省は、一方で国民の平静を求めるために楽観的な観測を発表しつつ、その半面では石油消費節約への地ならしを始めようとしていた。しかし、この綱渡りのような仕事を、うまくやれる自信は、山本大臣にも黒沢長官にもなかった。
「中東戦争再発」のニュースは、この日の朝刊には間に合わなかった。大部分の人びとは、このニュースを朝のテレビや通勤途上のカーラジオで知った。職場に来てから知った者も多かった。
そのためか、この日は買い溜めに走る消費者も、売り惜しみする商店もほとんどなかった。
心配された外国為替市場も、平静だった。ドル買い・円売りは、普段よりはかなり増加し、午前中に二億五千万ドルほどに達したが、日本銀行がドルを売り向かって、円相場を前日通りの線で維持した。二百億ドルの外貨を持つ日本にとって、二億五千万ドル程度のドル売りは、大した問題ではない。
株式市場だけは、さすがに敏感に反応した。寄付から海運、自動車、建設などの銘柄が売りたたかれた。しかし、それも長くは続かず、前場の終わり頃には下げ止まりとなった。結局東京証券取引所のダウ平均株価は、前日比八十六円安で午前中の取引を終えた。
その時まだ、日本以外の先進諸国は目覚めていなかったのである。