二月三日の閣議は、石油消費節減強化の早期実施を決定した。しかしその具体的内容についての、事務当局間の協議は、相変わらず論議のみを百出させた。
工場、商店などの週三日制には、全産業界が反対した。それを、失職を恐れる労働組合が強力に支持した。商店が週三日しか開かないのでは生活が破綻する、という主婦や一般消費者の意見も強かった。
すでにヨーロッパ諸国では、週四日制が実施されていたが、日本の産業界や労働組合、消費者団体は、ヨーロッパと日本の、企業体質や生活様式の違いをいいたてて、反対した。
小・中・高等学校の週四日制も不評だった。
「学校は戦時中の空襲の最中でも休まなかったんですよ。それをたかが石油危機ぐらいで、週四日制にしろなんて、通産官僚の良識を疑いますね」
文部省の局長たちは怒り狂った。
牛乳などの配達中止案も抵抗が強かった。
「牛乳配達を中止すれば何十万もの牧畜農家がつぶれ、その再建には十年かかる」
と、農林省の役人は叫んだ。
エネルギー庁はまた、デモと陳情団の大群に見舞われた。その人数は年末に比べればはるかに少なかったが、もっと激しく戦闘的な連中が多かった。最も多かったのは、灯油の配給制度に反対する主婦たちの群れだった。
「灯油は心配ないって、通産大臣がテレビでおっしゃったでしょ。あれはうそだったんですか」
ある代表者は、そういって黒沢長官につめ寄った。
「いやあの時の見通しではまず大丈夫と思えたんですが、その後消費者の買い溜めが予想外に多かったもんですから……」
年間消費二千五百万キロリットルの約六割が家庭用を中心とした暖房需要で占められている灯油では、十二月以来の買い溜めの影響が大きかったのは事実だ。しかしこの際、それを口にするのは不用意過ぎた。
「買い溜めとはなんですか、あなた。政府の失政を私たち国民のせいにするんですか」
「私たちは買い溜めはしていません」
「長官、あなたは情報が早くわかるから買い溜めしたでしょうけど、私たちは絶対してませんよ」
女たちの金切声が部屋中に充満した。なかには自分たちのいった言葉に酔ってか、
「長官が買い溜めするなんて許せないわ」
と、怒りの泣き声をあげる中年女性さえいた。
だが、この灯油の問題は、もっと深刻な事態をも引き起こした。
二月九日早朝、北海道札幌通産局長から、暖房用灯油の緊急手配を依頼してきた。この種の依頼が北海道から来たのは、一月二十日以来すでに四度目だった。エネルギー庁ではこれまでに、一月末と二月はじめに、合計二万キロリットル近い灯油を北海道に送ったし、つい四日前にも三回目の四千キロリットルを船積みしたところだった。
真冬の北海道では、灯油の消費量が、東京や大阪とは桁違いに多い。ごく普通の家庭でも一冬にドラム罐七、八本、つまり千五、六百リットルの灯油を使う。それだけに、北海道地区の危機感は強く、買い溜め意欲も大きかった。
地元の石油販売業者の方にも予測の狂いがあった。昨秋以来の灯油販売量が例年の水準を上回っていたため、地元の石油販売業者の多くは、大部分の家庭が、すでに一冬分の灯油を購入済みだとみていた。だが、実際には、一冬分以上も用意した者と、はるかに少ない量しか手当していない家とがあった。とくに、東部・北部の過疎地帯では流通経路の長さと不便さのためもあって、十分な量が行き渡っていなかったのだ。不幸なことに、この地域の販売で大きな比率を占めていたK石油やM鉱産は、石油会社の中で最も中東原油への依存度の高い企業であったので、その末端販売機構は早々と品切れ状態に陥ってしまった。
これらの事情は、札幌通産局と北海道庁から、詳しくエネルギー庁にも報告されたが、この時期に、何千キロリットルもの灯油を直ちに急送することは、エネルギー庁の方でも容易なことではなかった。
翌十日午後、北海道副知事と札幌通産局の部長の一人とが、エネルギー庁にやって来た。
「灯油の有無は、北海道では快適性の問題ではなく生命の問題です」
副知事は、状況説明のあとでそう強調した。
副知事の正面に坐った黒沢長官は、疲れ果てた顔に暗い縦じわを刻んでいた。このところ、連日激しい言葉を浴びせられている黒沢にとって、副知事の発言もそれほど刺激はなかった。
「北海道じゃ石炭ストーブは使えないですか……」
長官の隣りから寺木石油第一課長がいった。
「冗談じゃない。そんなもんは、もう十年も前になくなりましたよ」
副知事が腹立たしそうにいった。
「それに石炭そのものがないじゃないですか」
札幌通産局の部長も、荒々しい口調で咬みついた。
「炭鉱の大部分は閉山したのはあんたもご存知でしょうが」
彼は、役人としてはるかに上位に当たる寺木に、無遠慮な言葉を投げつけた。
気まずい沈黙が流れた。
その時、ノックもなしに若い男が、飛び込んで来た。襟に北海道庁のバッジがついている。
「大変です、副知事。凍死者が出ました」
「なに、凍死者……」
副知事は腰を浮かせた。
「はい、今朝十勝の奥で……」
バッジの男は上ずった声で叫んだ。
この日発見された凍死者は、十勝の山村に住む老夫婦だった。この部落では、すでに数日前から灯油の絶える家が出て、何家族かが一軒の家屋に残った灯油を持ちよって生活するところまで追い込まれた。凍死者の家は、部落から少し離れていたし、家畜の世話などもあって、二人は自宅を離れなかったのだ。
だが、このようなケースが、北海道東・北部で、すでにかなり広がっていた。翌日から、凍死の報告が毎日のように現れた。凍死ではなくても、厳寒の中で肺炎などを起こして死ぬ者の数はそれよりはるかに多かった。それは、自動車燃料不足による医療の欠如によって拡大された。
二月中旬になると、農場・牧舎を捨てて周辺の町に避難する者も少なくなかった。このため、住民を失った農村では、何万頭もの乳牛や何千頭かの高価な競走馬が死滅の危機に瀕していたのである。
救助ははかどらなかった。もう関東の精油所でもそう大量の灯油は集められなかったし、やっと函館や苫小牧に着いた灯油を奥地まで運ぶことが、トラックの燃料不足で容易でなかった。
この際、最も効果的な救援活動のできたのは自衛隊であった。北海道に駐屯する自衛隊の各部隊は、宿舎や施設の暖房用に持っていた灯油を、自らのトラックで危機に陥った部落へ送り届けた。
「われわれは防寒服で過ごしても、ある限りの灯油はすべて道民の救助に当てる」
と、自衛隊の各部隊は宣言し、またその通りのことをやった。
だが、自衛隊の灯油の量はそう多くなく、それで救助できるのは、ごく限られた数の村落の、一週間分程度に過ぎない。しかもこの救援活動を依頼する部落は実に多かった。完全に灯油の切れた部落だけでなく、もうすぐなくなりそうだ、というところも、この際分けてもらっておかねば、と焦った。
自衛隊の救援活動も十日とは続かないだろう、と道庁やエネルギー庁は憂慮した。北海道の冬は、まだ少なくとも五週間は続くのであった。