エネルギー庁長官室に入って来た安永博が、小宮に五、六枚の原稿を差し出した。二月二十八日の夜十時半頃だった。黒沢長官は、向かいの会議室で、夕方から電力業界の首脳たちと長い会議を続けていた。
「これで終わりかい」
それは、毎朝、大臣や国会、関係官庁などに配る状況報告書の原稿だった。
「ああ終わりだ。そしていまいましい二月も終わりだ」
安永は長身をソファに沈めて、疲れ切った声でいった。
ほんの二、三週間の間に、安永はひどく老けたようだ。若々しい陽気さで輝いていた黒い瞳が、どす黒い隈に囲まれて、怯えたように濁っている。
「じゃあ、これは俺がまとめておくよ。三月はいくらかましな月になるだろうな」
そういいながら小宮は、原稿に目を通した。
「前日のガス事故(二十八日午前中の発見分)ガス事故二百八十三件、死者四百七十八人、重態二十九人。ボンベガスの配給状況 東北、中部内陸、山陰地方の一部で配給用LPガスが不足、緊急輸送を手配。前日の送配電故障 七千六百四十件、うち、当日中に修復したもの五千二百六十六件……」
「また、電力故障は増加かね」
小宮が腹立たしくいうと、安永は暗い目つきでうなずいた。
電力の送配電故障の激増は、ガス制限の思わぬ影響の一つだった。
灯油が入手難、ガスも不自由で危険となると、人びとは電気に頼りだした。多くの家庭は、電気ストーブへ切り換えたし、押入れの奥から古い電熱器を引っ張り出したところも多かった。
家庭の電力使用量はみるみる急増し、発電用重油の需給を圧迫しだした。全体としての重油にはまだ余裕はあった。平常、全電力需要の六一%を占めている製造業部門の電力使用量が、鉄鋼、金属精錬、化学工業などの基礎部門を中心に、平常の三分の二に削減されていたからだ。
しかし、末端の送配電施設は、随所で過重負担にあえいだ。それは、当該送配電地区の需要に合わせて作られているので、住宅地域では家庭用電力の急増を支え切れなかった。もちろん、各家庭には、それぞれの電力使用量を制限する安全器があったが、その範囲内でも全家庭が一斉に限度いっぱい使うと、電柱のトランスが焼け切れることがある。そのうえ、いまの日本には安全器のヒューズを細工する程度の電気知識を持つ者はいくらもいた。
数日前から電柱のトランスが焼け切れたり、マンションの受電装置が故障したりする事故が続出した。それは、ボンベガスの配給制実施とともに、地方の町や農村にも広がりだした。
「向かいの会議が長引くはずだ」
小宮は、黒沢長官と電力会社首脳との会合が、この送配電故障の修理体制に関するものであることを思い出して、ため息をもらした。
「今日、急に決着はつかんだろう」
安永はなげやりな口調でいった。
「電力会社でも修理の手が回りきらんのは明らかだね。地方の町村では、直しに行くだけでも大変だ。修理部品も不足、自動車燃料も不足、というんだから。電力会社側の連中は、家庭用電力の使用制限をしないとだめだ、といってるけど、それもやりようがないね。一軒一軒見張っているわけにもいかん。安全器を細工した家は送電停止処分にしろといったって、人権問題になるから、どうしようもないね」
そんな説明をしたあと、安永はもうお手上げだといった身振りをしながら部屋を出て行った。
それは電力・ガス問題だけでなく、小宮がいままとめている石油製品でも同じだった。机の上にある書きかけの原稿は、バス・トラック燃料の軽油が全くピンチになっていることを述べていた。
その時、机上の電話が鳴った。
〈正常なのは電話だけだ〉
小宮はそんなことを思いながら受話器を取り上げた。だがそこから出て来たのは、全く正常ではない女の声だった。
「もしもし、もしもし」
小宮は呼び返した。相手が何をいってるのか聞きとれなかった。
慌てふためいたその声から「パパ、早く、火事」という単語の繰り返しだけが聞きとれた。
「落ち着いて下さい。どなたですか、お名前を……」
「ヤスコよ、早くパパ呼んで、火事よ、うちが火事だよ」
女は泣き声で叫んだ。
「もしもし、どちらのヤスコさんですか」
「もうだめよ、燃えちゃうわ、パパ呼んで……」
電話が切れた。小宮はなお何度か呼びかけたが、むだだった。
小宮は、一瞬ぼんやりと受話器を見つめた。どこの誰が、誰にかけた電話かわからなかったからだ。だがすぐ、自分の握っている受話器がエネルギー庁長官の直通電話であることに気づいた。
小宮は廊下に飛び出し、すぐ目の前の会議室に駆け込んだ。タバコの煙が立ちこめるなかに並んだ二十五、六人の顔が、一斉にこの乱入者の方を向いた。
一瞬、小宮は身をすくめた。勢い込んで飛び込んだ自分の行動が、行き詰った会議室の雰囲気とあまりにも場違いであったからだ。そのうえ、いまの電話の主が誰かも彼には自信がなかった。だが、彼は意を決して真直ぐ黒沢長官の方に歩いた。中央の席に座を占めた長官は、怪訝そうに小宮を見据えていた。
「恐れ入りますが、長官のご家族にヤスコさんという方はおられますか」
この小宮の言葉には、さすがに黒沢も驚いたようだった。この重要な、しかも深刻な状況にある会議の最中に、長官の家族調べは、どうにも不謹慎な質問である。
黒沢はムッとした表情で横を向いた。だが同時に、
「ヤスコは俺の長女だ」
と、吐き捨てるようにいった。
「そうでしたら、お宅が火事らしいです。いま、ヤスコさんという女の人から電話で……」
そこまで聞くと、黒沢は一瞬ギクッとして腰を浮かせた。しかしその表情はすぐ元に戻っていた。
黒沢は、ちらっと時計に目をやった。もうすぐ午後十一時だった。
「いま燃えているのなら、帰っても仕方あるまい」
そうつぶやいた黒沢は坐り直すと、出席者を見回していった。
「では今日の会議をまとめましょう」
一月から漸増していた火災発生件数は、ガス供給制限の実施に件って、ここ数日前から一挙に十倍以上になり、なお日々急増し続けている。
ガスも灯油もそして電力さえも不自由になると、人びとは、新聞・雑誌や建材の端切れ、古箱をこわした木片、ダンボール紙とかいった類のものを、石油罐の急造ストーブや代用七輪を使って燃やしはじめた。だが、それは想像以上に面倒なことだった。何十年間も、いや生まれてこの方こうした原始的な燃料と無縁であった人びとが、このやっかいな燃料を不完全な装置で安全に使用することを百パーセント期待することは無理だった。しかも、新しい住宅ではそれをするにふさわしい場所もなかった。止むなく人びとは狭い隣家との間の軒下や入口の土間や板の間、あるいはアパート・マンションのベランダなどでやった。
だが火は、どんな言訳も甘えも認めず、ただ物理の法則にだけ従って燃えた。わずかな火の粉から蒲団や障子を焼くこともあったし、石油罐ストーブの底からタタミをこがすこともあった。冷え切らぬ灰から炎がもえ移ることもあった。そうした火の中の何パーセントかは火災にまで広がった。そしてしばしば、家屋と人命を犠牲にした。
一番危険だったのは、団地アパートや高層マンションであった。黒沢エネルギー庁長官の住んでいた九階建、六十八戸の高層マンションをほとんど全焼させたこの日の火事は、その典型であった。
発火の原因は、三階の住人がガスが止まったあと、湯を沸かすためにベランダで焚いた石油罐改良の代用七輪の火の粉が、一階上のベランダに飛んだことだ、とみられた。この家でもよそと同様、燃料不足に備えて、ベランダには古新聞やダンボール紙を積み上げていた。買い溜め灯油もそこにあった。これに引火した炎が、同じように多量の買い溜め商品を山積みしていた各戸のベランダに燃え広がった。火は外面を包み、風にあおられて内部に移った。どの部屋も、ベランダ側には開放的なガラス戸しか持っていなかったことが、火の回りを著しく速めた。室内に流れ込んだ火は、各戸にあった家財や品物を燃料として一段と拡大し、人びとが逃げようとして開いた入口から大量の煙が階段室に流れ込んだ。このため上層階、とくに発火面とは反対側の方向のブロックにいて火災に気づくのが遅かった人びとは、避難の道を断たれた形となった。火が外から襲い、外部に開いた非常階段をふさいだことも惨劇を拡大した。
黒沢が、三十年間の貯えに退職金の一部を前借りして三分の一の頭金を工面して買った四LDKのマンションは、家財道具もろとも灰となった。彼の手元には火災保険もほとんど入らなかった。保険金の大部分は割賦ローンの返済に充当されることになっていたのだ。
だが、何よりもこの初老の高級官僚を悲しませたのは、十四人の焼死者の中に、彼の下の娘、明子が入っていたことであった。
この二月二十八日だけで、同じようなマンション火災が三件あり、中層アパートや個人住宅の火災は都内だけで四百五件、全国で三千三百五十八件もあった。それは、普段の十倍以上であり、しかも三月に入っても減らなかった。