「西成大暴動」は、日本史上最大のものの一つであった。この一夜、暴徒のなすがままにされた地区は六平方キロに及び、参加者数も十万人以上と推定された。火災は数十ヵ所に発生し、全焼六百戸、半焼四百戸に及び、掠奪を受けた食堂・店舗一千軒、奪われた商品総額は三十億円余りであった。被害店舗数の割に掠奪商品金額が少なかったのは、襲われたのが食堂、米穀商や食料品店に限られていたことと、これらの店にも在庫が少なかったためである。死傷者数も暴動の規模の割に少なく、死者は三十人足らずだった。警察があえて性急な鎮圧を試みなかったこともあったが、暴徒の側にも「人」に対する憎しみは薄かったのだ。この数少ない死者の中に、緑川光という船員が含まれていた。
この暴動には、なんの組織的破壊行動も、政治的背景もなかった。首謀者といえるほどの人物もなく、扇動者もいなかった。人びとは、欝積した不満と耐え難い不安と飢えの苦しみとから行動し、群集心理に煽られて荒れ狂ったに過ぎなかった。明け方に消防隊が入った時、多くの地区で群衆自らが積極的に消火に協力したほどだった。だが、その影響は大きかった。このニュースは、たちまち他の都市にも、同種の暴動を誘発したのである。
翌九日、横浜、尼崎、北九州の各市で小規模な騒乱事件があり、かなりの数の食料品店や米穀商が襲われた。そして十日の夜、東京でそれが発生した。
「東京大暴動」は、「西成大暴動」よりはるかに大規模だった。騒ぎは、大阪の場合と同様、「山谷」と呼ばれる地区の貧しい失職者の群れから起こったが、すぐに学生や一般の労働者なども多数加わった。暴徒数は二十万人を越え、騒乱地域も、浅草、上野、池袋、新宿と広がった。襲撃は最初食料品店や米穀商に向かったが、やがて企業のビルや金融機関、公共施設なども対象に選ばれた。上野、池袋、新宿の国電各駅は、一時暴徒の侵入によって機能を奪われ、田端操車場も占拠され、米産地から急送されて来たお米が貨車から奪い去られた。ヘルメットと竹槍、鉄パイプで装備した過激派学生の集団は、「革命」を怒号し、群集心理に煽られた人びとの先頭に立って、銀行の堅固なシャッターに突進し、電車に放火して、一部ではきわめて凶悪な様相を示しだした。
しかし、大部分の群衆は、全く無組織であり、「革命」よりも「明日の糧」の方に関心を持った。過激派学生集団の行為は、多くの共鳴者を得るには至らず、�国会占拠�を叫ぶ彼らの行進は、容易に警察隊に阻まれた。その半面、�生活自衛・失業反対・飢餓反対�の叫びは多くの支持を得て、政治要求を掲げたデモンストレーション的要素をも含んだ。そしてとくに、池袋や新宿方面では、直接行動への参加者に倍する数の野次馬的群衆が集まり、警備と鎮圧を困難にした。
午後十一時頃、ほとんどすべての交通機関はストップし、停電と断水と通信不能が随所に現れた。警察と消防の機動力は、路上の群衆と倒された電柱や街路樹などに妨げられ、台東区を中心に広がった火災は、かなりの規模になった。
政府首脳は戦慄した。首相官邸に在京の閣僚全員が集まり、緊急対策会議を開いた。
「神奈川、埼玉、千葉の三県から機動隊を集めよ」
という閣僚もいた。
「いや、そんなことをしたら、向こうの警備が手薄になって危い。それより機動隊を国会周辺に集中して、国家中枢機能の防衛に当たらせるべきだ」
と、別の閣僚はいった。
「陸上自衛隊に治安出動を要請すべきだ」
という意見は、何人かの閣僚から出た。国会議員からも、同じような意見を進言して来る電話が何十本も入った。
しかし、これには、かえって群衆を刺激する、と反対する閣僚も少なくなかった。防衛庁長官、防衛事務次官、統合幕僚本部議長らも、自衛隊出動には慎重論であった。外国では、小規模な騒乱でも軍隊が出動することは珍しくないが、日本ではそれは災害救助か爆弾処理に限られている。
議論は続き、総理大臣はいずれとも決しかねた。そのうち、暴動そのものが、午前二時頃から降り出した雨によって、急速に収縮した。
まだ寒い季節であったため、雨を逃れて野次馬の群衆が建物の屋根の下に身を隠したし、付和雷同組の多数の者も姿を消した。警官隊と消防隊が進出できるようになり、午前三時頃には、台東地区の一部を除いて暴徒は排除されていた。
被害は小さくはなかった。暴動参加者数と機能麻痺地区の範囲は、大阪の二、三倍とみられた。焼失家屋や破壊・掠奪の対象となった建物は三倍以上、死傷者数も四倍近くに上った。とくに公共施設、鉄道、電力施設などの損失は、大きかった。国鉄の上野、池袋、新宿、田端操車場などが一時的に占拠され、いくつかの電車、客車が炎上した。私鉄、都バスなどにも損害があった。注目されるのは、銀行や大企業が襲撃の対象となったことであった。このことは、全く偶発的に発生した、いわば飢餓一揆的な「西成大暴動」とは異なり、政治的要素が含まれていたことを示すものと見られた。
政治的・社会的影響は、直接の被害よりはるかに重大だった。とくに、最も警察力の充実した首都東京において、暴動が発生し、しかもそれを、自然の力でしか鎮静化しえなかった事実は、全国民に大きな不安を与えた。