その夜は、ベッドにはいってもなかなか眠れなかった。昨夜も、佑介からの電話があったあと、てっきり別れ話だと思い込み、そのことで思い悩んで眠れない夜を過ごしたのだが、今日は全く逆の意味で眠れない夜を過ごすはめになってしまった。
ただ、嬉《うれ》しくて眠れないというのではなかった。
むろん、嬉しくないと言ったら嘘《うそ》になる。
別れを半ば覚悟していた相手からいきなりプロポーズされたのだから。しかも、新田佑介は、おくての日美香にとって、いわば初恋の人でもある。
郷里にいた頃の日美香は、ひっつめ髪に野暮ったいメガネをかけた、典型的ながり勉少女だった。
成績は小学校から高校を通じて常にトップクラスだったが、男の子と付き合った経験は全くない。ずっと共学校に通いながら、男子から告白されたことも交際を申し込まれたこともなかった。
日美香の方でも、回りにいる男子を異性として意識したことも関心を持ったこともなかった。同級生だけではない。クラスメートたちが熱をあげるアイドルや人気男優にも全く興味がなかった。
高校生のときには、多大なる皮肉をこめて「聖少女」などと陰で呼ばれるほど、異性には縁がなかった。また、そのことを寂しいとも変だとも思わなかった。
同年配の少女たちが、少しルックスが良いというだけのことで、どうしてあんな白痴《はくち》のような少年たちに夢中になれるのか、日美香にはそちらの方が不思議でしょうがなかったのだ。
日美香が少し変わったのは、名門といわれる今の大学の薬学部にストレートで合格して、東京に出てきてからだった。
さすがに、キャンパスを闊歩《かつぽ》する、おしゃれであか抜けた女子大生たちを見て、自分がいかに場違いな存在であるか気が付いた。
それでようやく、少しは自分の身なりなどを気にするようになったのである。
中学のときからかけていたメガネをコンタクトに替え、いつもひっつめにして後ろで無造作に結んでいた髪を、流行の髪形にしてみた。
たったそれだけで、日美香は別人のようになった。自分ではたいして変わったとは思わなかったのだが、大学一年のときに夏休みに郷里に帰ったとき、回りの人々の反応のすさまじさで、自分がかなりの変貌《へんぼう》をとげたことを知った。
しかも、それ以来、やたらと男性に声をかけられるようになった。新田佑介に交際を申し込まれたのもその頃だった。
佑介は、日美香がはじめて異性として意識した男だった。幼いときから上昇志向のきわめて強かった日美香が、異性に求めたものは、ルックスの良さなのではなく、自分が尊敬できるものを何か持っているかどうかということだった。
それは知識でも技術でも才能でも何でもいい。自分が一目も二目も置けるような何かを持っているような男でなければ、いくら格好ばかり良くても関心が持てなかった。
佑介にはそれがあった。日美香が知らないことを沢山知っており、まがいものでない知性を彼の全身から感じとることができた。
かなり恵まれた家庭環境で育った、いわば良家のおぼっちゃんでありながら、そういったおぼっちゃんにありがちなひ弱さはあまり感じられなかった。
最初は淡い憧《あこが》れが、付き合ううちに、好きという感情になり、そして、今では、はっきりと「愛している」という感情にまで高まっていた。
だから、「笑って別れよう」などと決心しながらも、それが頭で思うほど楽なことではないだろうということは分かっていた。
しかし、事態は思いもかけなかった方向に逆転してしまった。
佑介は、別れるどころか、日美香と結婚することを望んでおり、しかも、彼の話が本当ならば、彼の家族もそのことに反対はしていないという。
それだけではなかった。
あのあと、夕食を一緒にしながら、佑介は、日美香をびっくりさせるような提案を持ち出したのだ。
たとえ結婚しても、きみを専業主婦として家庭に縛りつける気はない。もし、きみが望むのならば、仕事をもってもいいし、あるいは、このまま大学院に進み研究者としての道を歩んでもいい。
佑介はそう言ったのである。
大学院に進み、薬学の研究をする。
これは、日美香が密《ひそ》かに望んでいたことだった。しかし、それは所詮《しよせん》、かなわぬ夢とあきらめていたことだった。
小さなスナックをなんとかやり繰りして、仕送りをしてくれている母にこれ以上の経済的な負担をかけるわけにはいかなかった。
それが……。
好きな男と結婚できるだけでも十分幸運なことなのに、その結婚によって、密かに望んでいた事までもかなうというのだ。
まさに夢のような話だった。
しかし、この夢のような話を、日美香は素直に喜べなかった。
降ってわいたような、そら恐ろしいまでの幸福に、嬉しいというよりも、胸を締め付けられるような不安を感じていた。
眠れないのは、この得たいの知れない不安が黒い不吉な生き物のように、日美香の胸の上にどっかりと乗って、息苦しくさせていたからだった。
幸福はけっして一人ではやって来ない。必ず、双子《ふたご》のきょうだいともいうべき不幸と共にやってくるのだ。
一足さきに訪れた幸福が人を有頂天にさせている間、もう一人の陰鬱《いんうつ》な顔をした訪問者は、扉のむこうで自分の出番がくるのをじっと辛抱強く待っている……。
日美香を眠れないほど不安にしていたのは、まさに、幸福のあとにやってくる、この不幸の前兆ともいうべきものを、敏感にも既に感じ取っていたせいかもしれなかった。