朝から澄み切った青空が広がる、まさに五月晴れの日だった。
日美香は一冊の本を持って鎌倉に向かっていた。佑介にはああ言われたが、やはり、このまま何も知らないで過ごすわけにはいかなかった。そこで、日の本村を訪ねる前に、あの本の著者である真鍋伊知郎に会ってみようと思い立ったのである。
本の奥付に記された電話番号に電話を入れてみると、二十年もたっているので、真鍋がまだその住所にいるかどうかは分からなかったが、幸い、真鍋はまだそこに住んでいるようだった。
最近亡くなった養母の遺品の中から真鍋の本を見つけたことを話し、一度会って、その本についての詳しい話を聞きたいと言うと、真鍋は快く承知してくれ、高校の方は既に定年退職して暇な身なので、いつでも訪ねてきなさいと言ってくれた。
それで、さっそく翌日、鎌倉の長谷寺《はせでら》近くにあるという真鍋の自宅を訪ねることにしたのである。
真鍋の家を捜し当て、妻らしき初老の女性に案内されて、応接間のような部屋で待っていると、和服姿の真鍋伊知郎がすぐに現れた。
べっ甲縁のメガネをかけた六十前後の小柄な男だった。
日美香はソファから立ち上がり挨拶《あいさつ》した。そんな日美香の顔を、真鍋はひどく驚いたような表情で見ていたが、その驚きを押し隠すようにして、立ったままでいる日美香に向かって、「まあ、お座りください」と言った。
そして、和服のたもとから煙草を取り出すと、一本くわえて火をつけた。
「あの、実は……」
日美香は持参した本をバッグから取り出してテーブルに置くと、電話で話したことをもう一度繰り返してから、こう尋ねた。
「この口絵の写真の人が、サインにある倉橋日登美さんなのでしょうか」
すると、真鍋は、つと手をのばして、テーブルの上の本を取り、なつかしそうな表情でそのページをめくっていたが、
「そうです。これは、取材のお礼にと、私が日の本寺の住職に送った二冊の本の一方です」
真鍋はそう言った。この本の他にももう一冊、こちらは、日の本村を訪れた際、宿泊させてくれた日の本寺の住職|宛《あ》てにサインをして送ったのだという。
「……葛原さんとおっしゃいましたね? あなたは倉橋さんのお身内の方ですか」
真鍋は煙草の煙りが目にしみるのか、メガネの奥の目を細めながら、それでもじっと目の前の日美香の顔を見ながら言った。
「倉橋日登美は……わたしの母です」
日美香がややためらったあと、そう言うと、真鍋は、「ほう」という顔をした。
「あの方のお嬢さんですか。どうりでよく似ていらっしゃるはずだ……」
最後の言葉は呟《つぶや》くように言う。
「さっき、あなたを見たとき、驚きましたよ。一瞬、あの倉橋さんかと思ってしまいました。そうですか。あの方のお嬢さんですか。ああ、そういえば」
真鍋はふと思い出したというように言った。「三歳になるお嬢さんがいるとおっしゃってましたっけ。あなたがその……」
真鍋はそう呟き、一人で何やら合点したように頷いていた。
「あの……三歳になる娘って……?」
日美香はうろたえて聞き返した。真鍋は何か勘違いしている。真鍋が日の本村を訪れたとき、日美香はまだこの世に生を受けてはいない。
それとも、倉橋日登美には他にも娘、つまり日美香には姉にあたる子供がいたということなのだろうか。
そのとき、真鍋の本の間に挟まっていた写真のことを思い出した。男女の幼児が写った古い写真。ひょっとしたら、あの二人の幼児は倉橋日登美の子供なのかもしれない。ふとそう思いあたった。
「それはわたしではありません」
日美香はそう言って、事の次第を真鍋に説明した。先日、養母の葛原八重が突然の事故死をとげるまで、自分は倉橋日登美という女性の存在すら知らなかったこと。この二十年間、養母を実母だと思い込んできたことなど……。
そして、二十年前にも、養母がこの本を持ってここに訪ねてきたはずだということを言うと、真鍋の顔に、「あ」という表情が浮かんだ。
「……ああ、確かに。確かにそんなことがありました。なるほど。なるほど。そういうことだったんですか……」
一冊の本が取り結んだこの奇妙な縁に感じいったように、真鍋は何度も頷いた。
「母には、当時、三歳になる子供がいたのですか」
日美香はあらためて尋ねてみた。
「ええ、そんなことを聞いた記憶があります。なんでも、そのお嬢さんが、あの年の一夜日女《ひとよひるめ》に選ばれたと……」
真鍋は遠い日を見つめるような目でそう言った。
一夜日女の神事については、真鍋の本にも詳しく書かれている。
「母にはもう一人男の子がいたのではありませんか。五歳になる男の子が」
そう聞いてみた。
しかし、真鍋は首をかしげ、
「いや、男のお子さんのことは何も……」と言った。
「それで、そのわたしの姉にあたる人は、今も日の本村にいるのでしょうか……?」
日美香は身を乗り出すようにして聞いた。
わたしには姉がいた。
日美香の胸は高鳴っていた。
もし、その姉が今も日の本村にいるのだとしたら……。
「いや、それが……」
真鍋の顔が曇った。吸い切った煙草を灰皿に押し付けながら言う。
「亡くなったらしいのです」
「亡くなった……いつですか?」
日美香はがっかりして肩を落とした。
「あの祭りのあと、すぐだそうです。病気になられたとか……」
真鍋はやや歯切れの悪い口ぶりで言った。
「病気って……」
「詳しいことは私も知らないのですよ。週刊誌の記者をしているという人から聞いたことですから……」
「週刊誌の記者?」
日美香が聞き返すと、
「ええ、実はですね、半年ほど前でしたか、週刊誌の記者と名乗る男性が私の下に訪ねてきましてね、やはり、この本のことで聞きたいことがあると言って。倉橋日登美さんのことも色々と聞いていきましたよ」
週刊誌の記者が母のことを調べていた?
それはどういうことだろう。
日美香の胸がざわついた。
「週刊誌の記者がどうして母のことを……?」
「それも詳しいことは分かりません。私もなぜ倉橋さんのことをそんなに知りたがっているのか不思議に思って聞いてみたのですが、適当にはぐらかされてしまいましてね……。そうだ。もし、詳しいことをお知りになりたければ……」
真鍋はそう言いながら、すっと立ち上がると、サイドボードの前に行き、そこの引き出しを開けて何か探していたが、
「……ああ、これだ」
と言い、一枚の名刺を持ってソファに戻ってきた。
「これがそのとき、その記者から貰《もら》った名刺ですよ」
日美香は真鍋から手渡された名刺に視線を落とした。
週刊「スクープ」記者 達川正輝《たつかわまさてる》
とあった。勤務先の出版社の住所と電話番号が印刷されている。
「直接、当人に会ってみたらいかがです? 倉橋さんのお嬢さんだとわかれば、何か教えてくれるかもしれませんよ」
真鍋はそう言うと、再び煙草に手をのばし、二本めに火をつけると、少しリラックスしたように、ソファの背もたれに背中を預け、しげしげと日美香の顔を見た。
「しかし……奇遇ですねえ。二十年たって、あの方のお嬢さんにこんな形でお会いできるとは……」
と、感慨深げに言う。
「色々な村や島にもいきましたが、日の本村のことが一番印象に残っているのです。まあ、この本を出版する前の年に訪れたということもあるかもしれませんが。もう一度訪ねてみたいとずっと思っていたのですよ。しかし、それもかなわぬままに年月ばかりがたってしまって……」
真鍋はそう言って、倉橋日登美と出会ったときのことをなつかしそうに話した。
「きれいな人だったなあ。まるで天女が舞い降りてきたのかと思いましたよ。まさか、あんな山奥であんな美しい女性に会えるとは夢にも思っていませんでしたからねえ……」
「……母には当時、夫のような人がいたのでしょうか」
真鍋の口がすべらかになったようなので、日美香は、肝心のことをようやく口にした。
真鍋の本には、日女は、「大神の妻」として、生涯独身を義務づけられる。しかし、それは表向きのことで、日女の血統を絶やさないために、真性の巫女である大日女と若日女以外の日女は、実際には、事実上の夫や恋人を持ち、子供も設けている、というような記述があった。
ということは、母にもそのような事実上の夫なり恋人のような存在がいたということになる。だからこそ、日美香がこの世に生を受けたわけなのだから……。
「いや、それがですね」
しかし、真鍋はそう言って、やや眉《まゆ》を寄せた。
「あのとき、私が倉橋さんから伺った話では、倉橋さんは日女とはいっても、あの村で育ったわけではないというのです……」
真鍋は、当時、倉橋日登美から聞いたという話を思い出すままに話した。
「それでは、母は東京で育ち、結婚もしていたというのですか?」
「そうらしいですね。ただ、何かの事故で、ご家族をいっぺんに亡くされたとかで、まだ幼いお嬢さんを連れて、母方の郷里である日の本村に帰ってきたばかりだったようです……」
母には、事実上どころか、れっきとした戸籍上の夫がいたというのだ。しかし、その夫は、事故か何かで亡くなったのだという。それは、母が日美香を受胎する以前の話だろうから、少なくとも、その夫が日美香の父親ということはありえない。
とすると、母は夫を失って半年もたたないうちに、すぐに恋人を作り、その男の子供を身ごもったということなのか……。
そう思いあたると、日美香はちょっと嫌な気分になった。
夫を失った女は一生未亡人として泣き暮らせばいいなどとはさすがに思わないが、半年足らずで、他の男の子供を身ごもるというのは、日美香の感覚からすると、少々早すぎるような気がした。
実母も、もしかしたら、養母の八重のように、性的に放縦な女だったのではないだろうか……。
ふとそんな考えが頭をよぎったのだ。
「日の本村の日女が独身でいなければならないのは表向きの話だということは、その本にも書きましたが」
真鍋が言った。
「だからといって、日女に自由恋愛が認められているわけではないようなのです」
「それはどういうことですか」
日美香が不思議そうに聞くと、
「本にはあえて書きませんでしたが、日女の相手となるべき男性は、村の掟《おきて》で厳しく制限されているらしいのですよ。誰でもいいというわけではないのです。その年の大神祭で三人衆に選ばれた男の中からしか、日女は相手を選ぶことができないというのです……」
この三人衆というのも、本の中で触れてあったことを日美香は思い出した。祭りのときに、大神の役をするために選ばれる三人の青年たちのことだった。
「本来、日女は神の女ですから、人間の男は指一本触れてはならないとされているのです。しかし、それでは、神を祀る日女の血統も絶えてしまう。それでは困る。かといって、日女に普通の女なみの恋愛や結婚を許してしまえば、大神の怒りに触れかねない。
そこで、この矛盾を解決するために考え出されたのが、その年の祭りで三人衆に選ばれた男たちだけが、日女と愛し合うことを許されるという掟なのです。大神の役を演じた男たちには、その一年、大神からの特別なお許しが出るとされているのです。
だから、日女《ひるめ》がこの三人の中から恋人を選ぶ限りにおいては、それは村でも承認され、かつ祝福されるのです。その結果、子供ができたとしても、それは大神の子として認められ、日の本神社の宮司の家で大切に育てられるのだそうです」
真鍋はそこまで話し、「ただ」と付け加えた。
「もし、日女がこの掟を破り、三人衆以外の男に肌《はだ》を許すようなことがあったら、そして、村の者にそれが発覚しようものなら、その男ともども、厳しい制裁を受けるというのですよ……」