車を運転しながら、佑介はまだ動揺していた。
煙草は一年も前にやめていたが、何か口にしないことには気が鎮まりそうもなかった。ダッシュボードを開けてみると、幸い、三分の一ほど中身の入ったマイルドセブンの古い箱が、半ば潰《つぶ》れたようになってそのままになっていた。
佑介はそれを取り出すと、一本くわえて火をつけた。
ぶざまなことをしたもんだ。
自分で自分を思いきり殴りつけたいような気分だった。
あんな痣くらいで怖じけづくなんて。
どうかしている。
しかし、あれを見た瞬間、まるで金縛りにでもあったように身体が動かなくなってしまったのだ。
そして、自分の中で高ぶっていたものが、文字通り、萎《な》えてしまった。
あれはまるで……。
佑介は小学生の頃のことを思い出していた。
母がたの実家のある田舎に遊びに行ったときだった。一人で田圃《たんぼ》のあぜ道を歩いていた佑介は、道の真ん中に紐《ひも》のようなものが落ちているのに気が付いた。
近づいて見ると、それは紐ではなく、一匹の蛇だった。それほど大きな蛇ではなく、小さな、しかも、鱗《うろこ》が青とも紫ともつかぬ不思議な色合いでぬめぬめと輝いている美しい蛇だった。
それが蛇だと分かった瞬間、佑介はその場から動けなくなった。
蛇の方も、とぐろを巻き、威嚇《いかく》するように鎌首《かまくび》をもたげて、じっと佑介の方を見ていた。
まさに蛇に見入られた蛙のようになって、佑介はかたまってしまった。
逃げることも声を出すこともできなかった。
どのくらいそうしてにらみあっていただろう。
ほんの数秒のことだったのかもしれないが、幼い佑介には一生続くのではないかと思われるくらい長く感じたものだ。
やがて、蛇はするすると道を横切り、藪《やぶ》の中に消えてしまった。
佑介の身体が動くようになったのは、蛇が消えたあとだった。
あのときの感覚に似ていた。
ブラウスの前を押し広げて、日美香の抜けるように白い胸に薄紫の鱗状の痣を見たときのあの感じは……。
醜いと思ったわけではなかった。
むしろ、痣は奇妙な美しさを持っていた。
あのときの蛇のように……。
しかし、あれを見たとたん、身体が言うことをきかなくなってしまった。おぞましさというより、畏怖《いふ》に近い念が背中を駆け抜けたのだ。
触れてはならない。
これ以上、この女に触れてはならない……。
佑介の頭の中でそんな声がどこからともなく響いてきた。
真鍋の本にあった「大神の印」という言葉もふっと頭に浮かんだ。さらに、その昔、掟を破って日女と愛し合った男が村人になぶり殺しにされたという話も……。
ほんの一瞬の間に、それらのことが次々と頭をよぎり、それまでの高ぶりが水でもかけられたようにさーと引いてしまった。
無理に行為を続けようとしても、もはやそれは精神的にも物理的にも不可能な状態になってしまったのである。
惨《みじ》めな敗北感にうちひしがれ、その場にいたたまれず、逃げるように彼女の部屋を出てくるしかなかった。
……日美香、大丈夫かな。
せわしなく二本めの煙草をふかしながら、ようやく恋人のことを思いやる余裕を取り戻した佑介は、ふとそう思った。
二年も付き合っていて、日美香が軽いキス以上のことを自分に許そうとしなかった理由もこれで分かったような気がした。
きっと、あの痣を見られたくなかったからだろう。
それほど気にしていたんだ。
そりゃそうだろう。
誰だって、あんな気味の悪い痣があったら。まして、日美香のような若い娘なら、人に知られたくないと思うのが当たり前だ。
それをあんな形でほうり出して……。
きっと彼女は傷ついたに違いない。
あの痣のために俺に嫌われたと思い込んだかもしれない……。
そうじゃないってことを明日にでも電話して話そう。
本当に大切に思っている女と肉体的に結ばれようとするとき、しばしば男は不能に陥ることがあるという話を聞いたことがある。
たぶん、自分にもそれに似たことが起きたのだろう。
痣のせいじゃない。だから気にするな。
そう言えば、彼女も納得してくれるだろう。
そして、次はきっとうまくいく……。
あんな痣。
と佑介は思った。
美容整形外科のクリニックを経営している叔父に頼めば、跡形もなく奇麗に取り去ってくれるだろう……。