すべては順調に進んだ。
あとは、日登美に少しずつ日女としての誇りと使命を果たす自覚を植え付けていけばよかった。
そして、いつか、あの事件の真相を知ることがあっても、その頃には、日登美自身がこれでよかったのだと思える日が来るだろうと信じていた。
日登美の中に眠っている日女の血さえ目覚めれば……。
しかし、そうなる前に一つのアクシデントが生じてしまった。
大神祭の一夜日女に決まっていた真帆がそのつとめができなくなってしまったために、急遽《きゆうきよ》、春菜を代役にたてなければならなくなったことだった。
日登美はまだ日女として目覚めてはいない。あんな形で家族を失った直後に、さらに残された幼い娘を失うことは耐えられないだろう。
しかし、だからといって、一夜日女の神事を取りやめることは、神迎えの神事を取りやめること以上にできない相談だった。
しかも、あの年の大祭は特別な意味をもっていた。
貴明が翌年の衆議院選に出馬することが決まっていたからである。兄を当選させなければならない。それには、いつにもまして、大神の御加護が必要だった。
そのためにも、大祭を取りやめることは絶対にできなかった。
だが、聖二にとって、思いもかけないアクシデントはこれだけではなかった。大祭の数日前になって、貴明が突然、自分を三人衆の一人にしろと要求してきたのである。
その年の三人衆を選ぶのは、表向きは、大日女の役とされていたが、実際には、聖二の胸先三寸で決められていることを兄は知っていた。
しかし、貴明を三人衆にすることはできなかった。既に三人衆のメンバーは決まっていたし、たとえ変更するとしても、三人衆になれるのは、十八歳以上三十歳未満の独身男性と定められているから、新庄美里と結婚して子供までもうけていた兄にはその資格がなかった。いくら聖二といえども、村の掟《おきて》を破るわけにはいかなかった。
そう言って一度は拒んだものの、貴明はなぜか執拗《しつよう》だった。三人衆のメンバーは変更せずに、その中の一人とこっそり入れ替わればいいではないかと言い出したのだ。太田久信なら自分とさほど体格が変わらないので、蛇面と蓑笠《みのかさ》をつけてしまえば、外見からは見分けがつかないだろうと……。
村の掟を破ってまで三人衆になりたがる理由を聞いても、兄は、「来年の衆議院選に勝つために大神の霊の力を自分の中に取り込みたいのだ」などともっともらしいことを言っていたが、それが本当の理由ではないことを聖二は薄々感づいていた。
おそらく、貴明は半年近く「くらはし」に通い、事件のあとも日登美母娘の元に足繁く通って面倒を見ているうちに、日登美に何らかの関心をもったのだろうと推測していた。
兄のことは、自分が一番よく知っていると聖二は思っていた。東京の中学に入学してから高校を卒業するまでの五年間、聖二は貴明と二人きりでアパート暮らしをしていた時期があった。
今、兄の身辺をあさっているマスコミ連中が、あの頃の兄の行状を知ったら、その早熟ぶりに度肝を抜かされるに違いない。
中学に入った頃から、既に身長が百七十を越え、体格においても頭脳においても、同年配の少年の平均をはるかに上回っていた兄は、制服を脱いで私服に着替えてしまえば、とても中学生には見えなかった。
実際、兄は大学生と偽って、夜になると盛り場をうろつき、大人顔負けの女遊びに勤《いそ》しんでいたようだった。
もっとも、こうした兄の素顔を知っていたのは聖二だけだった。
学校にいるときの兄は礼儀正しい優等生以外の何者にも見えなかったし、彼の中に潜んでいたもう一つの顔を教師にも学友たちにもけっして見せることはなかった。
高校を卒業して単身渡米したあとも、日本に帰ってくるまでの二年間、何をしていたか知れたものではなかった。
レストランの皿洗いなどのアルバイトをしながら食べていると本人は言っていたが、実際には、むこうで知り合った年上の金髪女たちとよろしくやって、食べさせてもらっていたのではないかと聖二は踏んでいた。
だから、週刊誌などで、貴明が現夫人との熱愛を貫くために政界に入っただの、政界きってのおしどり夫婦だのとまことしやかに書かれているのを見ると、腹を抱えて笑いたくなった。
そもそも、兄が政界入りを本気で考えるようになったのは中学の頃からだということを聖二は知っていた。
さらに言えば、兄の頭にその考えが最初に浮かんだのは、おそらく、あのときだったに違いないと思うことがあった。
あのときというのは、聖二が五歳、貴明が六歳の春だった。神家の子供として、日の本寺に秘仏として安置されている大神の像をはじめて見せられたときだった。
そのとき、日の本寺の住職から、覇王の印である天叢雲《あめのむらくも》の剣の話を聞いた。それが、遠い昔、大神の手から奪われ、大神の御霊は今もなお、失われた剣を求めて彷徨《さまよ》い続けているのだという話を……。
住職の話をいつになく真剣な顔つきで聞いていた貴明がそのとき、何を思ったのか、ぽつんとつぶやいたのだ。
「いつか僕が剣を取り戻してやるよ」と。
そんな兄が新庄美里と結婚した理由は一つしかなかった。彼女が大物政治家の一人娘だったからだ。中学の頃から、「この世で最も無意味で不毛な情熱は、恋愛の情熱だ」などと豪語していた兄に、それ以外の理由などあるはずもなかった。
ただ、新庄家に婿入りしたあとの兄の行状は、それまでの彼をよく知っている聖二から見ると、まるで別人かと思うほど「クリーン」になっていたのは事実だった。
新庄美里との交際がはじまった段階で、貴明はそれまで付き合いのあった女たちとは奇麗さっぱりと手を切り、完全に自分の過去を拭《ぬぐ》い去ってしまった。それは傍で見ていても感嘆に値するほどの手際の良さだった。もっとも、貴明にそうするように頼んだのは聖二自身だったのだが……。
つまらぬ女性スキャンダルなどのために、せっかくつかみかけた政界入りのチャンスを失ってほしくはなかったからだ。貴明もそのことは十分承知していたようだった。
しかし、その奔放な一面を知り尽くしていただけに、新庄家に入ってからはさぞ窮屈な思いをしているだろうと、聖二は兄の立場に密《ひそ》かに同情してもいた。
自らが村の掟《おきて》を破ることに若干のためらいを感じながらも、結局、貴明の要求を呑《の》んでしまったのは、こうした同情的な気分が尾を引いていたからかもしれなかった。
それに……。
聖二が兄の要求を呑んだ理由はもう一つあった。
それは、ある日、兄がふとつぶやいた一言だった。
「やっぱり妹だな。よく似ている……」
そうつぶやいたときの兄の目に浮かんでいた奇妙な表情が、聖二に中学の頃をふいに思い出させた。
この一つ年上の兄と故郷を離れて二人きりで暮らしていたあの頃のことを……。