平成十年、七月十一日。
渋谷《しぶや》駅のハチ公前で、柴田繁之はイライラしながら腕時計ばかりを見ていた。待ち合わせの時刻を一時間以上過ぎても、ガールフレンドの良美は現れない。
何かあったのかと思って、良美の携帯に何度も電話を入れてみたが、呼び出し音が鳴るばかりでいっこうに出ないし、こちらの携帯にも何の連絡も入らない。自宅の番号にもかけてみたが、家族はみな出払っているらしく誰も出なかった。
繁之のいらだちはピークに達していた。
あと十分待って、良美が現れなければ帰っちまおうと腹立ち紛れに決心したときだった。まるで心の中で発した怒声を聞き付けたように、携帯の着信メロディとして入れている「ドラえもん」のテーマ曲が間の抜けた音色で鳴った。
出てみると、良美からだった。
「何やってんだよ! ずっと待ってんだぞ」
繁之はまず怒りをぶつけた。
良美は、ひどくうろたえたような声で「ごめんごめん」と謝り、出掛けようとしていた矢先に、同居している祖母が倒れて、今、病院からかけているのだと言った。
祖母の容体はかなり悪いらしく、今夜が峠だと医者は言っている、連絡を受けた親戚《しんせき》たちも続々と病院に集まりつつある、とてもデートの約束があるからと言って抜け出せる雰囲気ではないと良美は早口に語った。
「そんな……」
昨夜電話で、「会いたい」と言ってきたのはそっちじゃないか。だから、大学の友人と遊ぶ計画をたてていたのに、それをキャンセルして付き合ってやろうと思っていたのに。一時間以上も待たせたあげくに、今更行けないはないだろうと思わず抗議しそうになったが、その言葉をかろうじて呑《の》み込んだ。
祖母の容体を気遣ってか、良美の声は涙混じりになっていたからだ。
「……それなら、早く知らせればいいのに」
それだけ愚痴っぽく言うと、良美は、救急車に一緒に乗り込むとき、慌てていたので、うちに携帯を忘れてきてしまったのだと弁解した。そして、「また連絡する」と言うなり、病院の待合室からかけているという電話を一方的に切ってしまった。
「ったく!」
繁之は手の中の携帯を睨《にら》みつけ、怒りをぶつけるように呟《つぶや》いた。
まあ、しかし、ばあさんが倒れたというのでは仕方がないか。
少し怒りがおさまると、そう思い直した。
さて、これからどうしようか。
問題は、いきなり空白になってしまった時間の使い道である。このまま下宿先のアパートにすごすご帰る気にもなれない。ゲーセンででも遊ぶか。それとも、いっそ、ナンパでもしようか。そういえば、最近、あっちの方も「ご無沙汰《ぶさた》」してるし……。
土曜の昼下がりということもあってか、ハチ公前には、人待ち顔の若い女性の姿が多く目についた。中には、彼のように約束していた相手にドタキャンくらった子もいるかもしれない。同病相|憐《あわ》れむ。その子を誘えば……。
そんなことを思いながら、物色するように若い女性たちをそれとなく目で追っていた繁之は、向こうのベンチに腰掛けていた、一人の若い女性と目が合った。
年の頃は二十歳前後というところだろうか。白いTシャツにブルージーンズという格好だったが、顔には濃いめの化粧が念入りに施されている。それがラフな服装とややミスマッチで、ちょっと異様な印象があったが、顔立ちそのものは悪くない。いや、かなり良い。あんな濃い化粧をしなくても、素顔で十分勝負できそうな娘だった。
その娘は、両足の間に大きな紙袋を置き、じっと食い入るようなまなざしで繁之の方を見ていた。
そういえば、さきほどから、こちらに秋波《ながしめ》とも取れる熱い視線を幾度となく送ってきていた。なんとなく気になる存在ではあったのだが……。
ただ、へたに話しかけて、そのときに良美が現れたりしたら厄介だと思ったので、相手の視線をそれとなくはずして、あまり見ないようにしていたのだ。
今度は視線をはずさずに見返すと、ふいに、その娘はにこっと笑いかけてきた。澄ましているときれいな娘《こ》という印象だったが、笑うとかわいい感じになる。そんな笑顔だった。
脈あり。
繁之の方もとっておきの愛想笑いを満面に浮かべた。
よし。あの娘にしよう。
娘の笑顔に勇気づけられ、そう決心すると、繁之はベンチから立ち上がり、ぶらぶらといった感じの足取りで、その娘の方に近づいて行った。
「待ち合わせ?」
そう聞くと、娘は横にかぶりを振った。誰かと待ち合わせているわけではないらしい。
「何してるの?」とさらに聞くと、「べつに」と答える。笑顔のままである。
なんとなく、暇つぶしにここにいるというわけか。繁之は娘の返事をそう解釈した。
「よかったら、お茶しない?」
繁之の方も笑顔を絶やさず、軽く言ってみた。ナンパは重くやったら失敗する。しつこいのも駄目だ。明るく軽くさりげなくやれば成功率は高い。そして、断られたらすぐに引き下がる。深追いしてはいけない。
「いいわよ」
娘は即座にそう言った。あっけないほど簡単だった。
とりあえず、近くの喫茶店に行った。
「名前は?」と聞くと、「まなご」と答えた。
「まなご? どんな字書くの?」
変わった名前だなと思って聞き返すと、娘は、「真実の真に女に子って書くんだよ」と言った。
真女子か。
「本名?」と聞くと、娘は、ふっと人を小馬鹿にしたような微笑を口元に浮かべた。
「まさか。ハンドルよ」
「ハンドルって、インターネットとかやるんだ?」
そう聞くと、娘は、「まあね」と答えた。
繁之も最近インターネットにはまっていたので、つい、その話題で話が盛り上がった。やがて、話題は、インターネットからテレビゲームの話になった。繁之はゲームにも目がなかった。「真女子」と名乗る娘も、ゲーム好きのようだった。
「あれ、やったことある?」
繁之がある対戦がたの人気ゲームの名前をあげると、「真女子」は、「やったことない。一人でできるのしかやらないから」とそっけなく言った。
「でも、あれ、めちゃめちゃ面白いよ。やったら、絶対はまるぜ。ねえ、暇だったらさ……」
繁之は、ワンテンポ置いて軽く言った。
「うちに来てやらない?」
これは、ふと思いついたという顔で、さりげなく言わなければならない。あまり熱心に誘うと、こちらの下心がばればれになってしまう。ホテル代を浮かそうという下心が。
「うちって家族とかいるんでしょ? わたし、そういうの煩わしい……」
「真女子」はそんなことを言った。あまり社交的なタイプではないらしい。
「いないよ。俺《おれ》、一人暮らしだもん」
繁之は、慌てて、大学に通うために上京してからずっとアパートで一人暮らしをしていることを言った。
「だったら……」
「真女子」は少し考えていたようだが、すぐににこっと例の感じの良い笑顔を見せると言った。
「行ってもいいわ」