八月二十七日。
伊達浩一は、「真鍋」と表札の出た門扉に付いたインターホンを鳴らした。年配の女性の声で応答があり、「先日電話をした伊達という者ですが」と名乗ると、「どうぞお入りください」という返事があった。
門をくぐり、ささやかだが手入れの行き届いた庭を通り、玄関に行くと、真鍋の妻らしき上品そうな老婦人が出迎えてくれた。
応接間らしき部屋に通され、しばらくすると、べっ甲縁の眼鏡をかけた六十年配の小柄な男が入ってきた。
「私が真鍋ですが」
男はそう言ってソファに座った。
「突然お邪魔しまして……」
伊達はさっそく名刺を出して渡すと、「実は」と用件を手短に伝えた。
「つまり……倉橋日登美さんのことをお調べになっているというのですな?」
腕組みしたまま伊達の話を聞いていた真鍋が言った。
「ええ。それで、さしつかえなければ、その『奇祭百景』という本を見せて戴《いただ》けないかと……」
そう言うと、真鍋は鷹揚《おうよう》に頷いて、「べつにかまいませんが」と答えた。
そのとき、さきほどの老婦人が茶菓を載せた盆を持って入ってきた。
「おい。アノ本を持ってきてくれないか」
真鍋は妻に言った。それだけで通じたらしく、老妻は頷いただけで出て行った。
「しかし、奇妙なものですな……」
真鍋は妻が運んできた茶を口元に運びながら、伊達にというより、殆《ほとん》ど独り言のように呟《つぶや》いた。
「あの本がらみで訪ねてきたのは、あなたを入れて、これで四人になりますよ」
「日美香さん以外にもどなたか……?」
伊達が身を乗り出すようにして聞くと、
「最初は、もう二十年も昔になりますが、葛原八重さんという女性がね。聞くところによると、その日美香さんという娘さんの養母にあたられる人だとか。そのあとは、あれは、去年の十一月頃でしたかね、週刊誌の記者だという人がやっぱりこの本のことで訪ねてみえて……」
「週刊誌の記者?」
伊達は聞き返した。週刊誌の記者が一体何のために……?
「ええ。確か、週刊『スクープ』の達川《たつかわ》……そうそう、達川|正輝《まさてる》という記者でしたよ」
「何を聞きに来たんです?」
「それが、今一つ、相手の目的がよく分からなかったんですが、とにかく、倉橋日登美さんのことで聞きたいことがあると……ああ、そういえば、この達川という記者さん、亡くなったようですな」
真鍋は、思い出したように言った。
「亡くなった?」
「二カ月くらい前でしたかな。自宅のマンションから転落死したとか。まあ、ひょっとしたら、同姓同名の別人かもしれませんが、新聞やテレビで報道された顔写真は私が会った達川さんによく似ていたから、おそらく、あの達川さんだと思いますがね」
倉橋日登美の件を週刊誌の記者が調べていて、しかも、その記者が、二カ月ほど前に自宅マンションから転落死……?
伊達の胸が妙な具合に騒いだ。これは単なる偶然だろうか。そういえば、そんな記事を読んだような記憶があった。確か、自殺とも事故ともつかぬ事件ではなかっただろうか……。
応接間のドアが再び開いて、真鍋の妻が例の本を持って現れた。
「これですよ」
真鍋は妻から手渡された本をテーブル越しに伊達の方に差し出した。
礼を言って、その本を受け取ると、さっそく中を開いてみた。
なるほど、口絵の部分に、白衣に濃い紫色の袴《はかま》を着けた女性がほほ笑みながら写っていた。長い黒髪を後ろでひとつに結び、年の頃は二十歳そこそこに見える。かなりの美形だった。
「この方が倉橋日登美さんですか……?」
そう聞くと、真鍋は大きく頷《うなず》いた。
「その頃、私は、日本の祭り、とくに『奇祭』と呼ばれる変わった祭りに大いに興味がありましてな、暇を作っては、日本中のそうした祭りを見て回っていたんですよ……」
真鍋の話はこうだった。昭和五十二年の晩秋、真鍋は、かねてより「奇祭」という評判を聞いていた日の本神社の「大神祭」という祭りを見るために、長野県の日の本村を訪れた。長野駅から乗ったバスを降り、三日ほど泊めてもらうことになっていた日の本寺という寺に向かう途中、たまたま、巫女姿の若い女性と出会い、寺への道を聞いたところ、それが倉橋日登美だったのだという。
「……倉橋さんも寺へ行くところだったので、同行して、そこで、日の本寺の住職も交えて、『大神祭』について色々と話を聞きましてな、口絵の写真は、そのとき、寺の境内で撮ったものなんですよ。見ての通り、奇麗な人だったし、巫女さんの衣装といえば、赤い袴が相場なんですが、紫色の袴姿というのも珍しいような気がしたもので、是非、記念に撮っておこうと思いまして。何でも、紫色の袴の方が古式にのっとっているそうですな。日の本神社というのは、聞くところによれば、千年以上も続く古社だそうですから……」
真鍋は言った。
「そのとき、倉橋さんはご自分の身の上のことなど、何か話されましたか?」
「ええ少し。てっきり地元の人かと思ったら、そうではなくて、生まれはこの村だが、育ったのは東京だそうで、村に戻ってきたのも、ほんの数カ月前のことだとおっしゃってましたな……」
真鍋は思い出すように言った。
「ご家族のことは何か……、たとえば、倉橋さんには、当時、三歳になるお嬢さんがいたはずですが?」
「ああ、確か、その年の一夜日女《ひとよひるめ》に決まったお嬢さんですな……」
「ひとよひるめ?」
「一夜日女のことなら、その本に詳しく書いてありますよ。いわば、『大神祭』の主役ともいうべき存在です。日の本村では、巫女さんのことを『日女《ひるめ》』と呼ぶ習わしがあって、これは、代々、神家に生まれた女性が世襲で引き継ぐものらしいのです。母から娘へと。ずっと東京で暮らしていた倉橋さんが生まれ故郷である日の本村に帰ってきたのも、なんでも、事故だか事件で娘さん以外のご家族をいっぺんになくされたせいらしいのですが、それだけではなくて、その年の『大神祭』の『日女』になるために、神家から是非にと請われて戻ってらしたとか……。
まあ、最近のお手軽神社などでは、巫女さんといっても、女子大生のアルバイトだったりするのが殆どなんですが、さすがに千年以上も続く古社ともなると違いますな」
「それでは、当時三歳だったお嬢さんが、今では、その『日女』というのになっているということですか?」
「いや、それが……。達川という記者の話では、そのお嬢さんは亡くなったそうです。その年の『大神祭』で一夜日女を勤めた直後、病気か何かで」
「亡くなった……」
伊達は呟くように言った。そうか。だから、倉橋日登美は、翌年、一人で村を出たのか……。
「あの、できれば、この本をしばらく拝借できませんか?」
伊達は手の中にある本を真鍋に見せるようにして言った。
「ああ、それなら差し上げますよ。そんな素人の書いたものに興味がおありなら……」
真鍋は笑いながら言った。