その夜、いつものように冷たいシャワーを浴び、部屋に戻ってくると、蛍子は、さっそく、伊達から預かってきた真鍋の本を取り出した。
「大神祭」(日の本神社)という項を開くと、そこには、日の本村の由来と、「大神祭」という祭りについての詳細な記述があった。
日の本村というのは、伊達の話にもあったように、六世紀頃、蘇我氏との権力闘争に敗れ、中央を追われた物部氏の残党が作った村で、「日の本」という村の名前も、太古、九州から大和一帯を実質的に支配していた物部王国の名前をそのまま村名にしたとある。
物部伝承によると、そもそも、「日本」という国号の由来は、この物部氏の神祖ニギハヤヒノミコトが、天磐船《あめのいわふね》にうち乗り、天降りしたときに、「虚空《そら》に浮かびてはるか日の下を見るに、国有り。因りて日の本と名付く」と言ったことから名付けられたのだという。
新興勢力でもあった蘇我氏との闘争に敗れ、当時は、科野《しなの》と呼ばれていた信州の山奥に逃げ延びたあとも、太古、日本という国を支配していた物部氏の子孫であるという、いわば民族的な誇りのようなものが、この村名には反映されているようだと著者である真鍋は書いていた。
ただ、この記述はあくまでも、「物部氏の子孫」だと名乗る村人から取材して得た情報だけで成り立っているらしく、ここに書かれていることが果たして真実かどうかは怪しいものだと、蛍子は読みながら思った。
元来、日本人には、「判官びいき」という言葉まであるように、権力闘争に敗れた歴史的敗者に、心情的に肩入れするようなところがある。それの最も顕著な例が、あの平家伝説であり、「判官びいき」という言葉の元にもなった義経伝説だろう。
物部氏というのが、この本に書かれているように、太古、日本を実質的に支配していた部族かどうかは知らないが、仏教をめぐって、蘇我氏との権力闘争に敗れた歴史的敗者であることは間違いない。そういった意味では、源氏に敗れて哀れな最期をとげた平家や、兄、源頼朝に迫害され追われたという義経と一脈通じるものがある。
これといった資源を持たない山奥の村などでは、明らかに観光狙いでこうした落人《おちうど》伝説を捏造《ねつぞう》するところもあるようだ。
そもそも、物部氏というのは、蛍子の知っている限りでは、南方系とも北方系とも言われ、学者の間でも見解が一致しないほど謎に満ちた部族であり、歴史作家の中には、神祖ニギハヤヒノミコトが、「空飛ぶ船」に乗って天降りしたという物部伝承からの発想か、「物部氏宇宙人説」を唱える人までいるほどである。
だから、ここに書かれた村の由来がどの程度真実に即したものかは大いに疑問だったが、日の本村がいわゆる観光地ではないことから考えると、少なくとも、観光狙いで、「物部伝説」をかつぎ出してきたわけではないようだった。
村の由来を読み流し、さらに読み続けて行くと、「大神祭」についての記述があった。それはこのようにまとめてある。
「……『大神祭』いうのは、一言で言えば、冬至の頃、弱まった太陽の力を呪術《じゆじゆつ》で復活させる冬の祭りである。これは、物部氏が古くから「タマフリ」と称して行ってきたもので、宮廷の鎮魂祭の元ともなった由緒ある祭りである。
『大神』とは、日の本神社の御祭神でもある『天照大神』のことである。しかし、この『天照大神』とは、記紀に描かれているような女神ではなく、男神であり、しかも蛇体の神であると言われている。一説には、物部氏の神祖ニギハヤヒノミコトであるとも言う。
初冬の頃、この蛇体の太陽神の力をよみがえらせる為に、『日女』と呼ばれる巫女《みこ》たちが中心になって祭りが行われる。祭りには、毎年行われる例祭と、七年に一度の大祭とがある。
例祭では、まず、『大日女《おおひるめ》』という最高位の老巫女によって、『大神』の御霊が呼び出され、『三人衆』と呼ばれる三人の若者に降ろされる。これを『御霊降《みたまふ》りの神事』という。
『大神』の御霊が宿ったとされる『三人衆』は、神の象徴である蓑《みの》と笠、さらに蛇面と呼ばれる一つ目の仮面を被《かぶ》って、村中の家々を回り、蛇神の好物である酒と卵のもてなしを受ける。これを『神迎えの神事』という。
そして、すべての家を回り終わったあと、神社に戻り、最後に、『日女』によって酒のもてなしを受ける。満足した『大神』の御霊は『三人衆』の身体《からだ》を離れ、再び天へと戻っていき、祭りは終わる。
祭りというと、華やかな神輿《みこし》をすぐに連想しがちだが、この『大神祭』では、神輿の類いはいっさい繰り出さない。
しかし、七年に一度の『大祭』では、『御霊降りの神事』と『神迎えの神事』に加えて、『一夜日女の神事』という神事が行われる。このときは、ささやかな神輿が繰り出される。『一夜日女』とは、『大神』に捧《ささ》げられる『一夜妻』の意味で、まだ初潮を見ない十二歳以下の幼い日女が勤めると言われている。神輿はこの『一夜日女』を乗せるためのものである。
ただ、神輿といっても、担ぎ手は、日の本神社の宮司をはじめとする神官に限られている。しかも、この神事は深夜密かに行われ、神職につく者以外は、この神事の様をけっして見てはならないとされている。村人たちは、この日は、日の入りと共に早々と雨戸を閉め、家に篭《こ》もってしまう。夕方以降の外出も禁じられているからである……」
ここまで読んできて、蛍子はふと沢地逸子のコラムのことを思い出した。そういえば、沢地のコラムにも、ギリシャ神話の太陽神アポロンに触れた項で、「日本の太陽神である天照大神も実は蛇神であった」と書かれていたことを思い出していた。
そんなことを思いながら、なおも読み続けていた蛍子の目がある文章に釘付《くぎづ》けになった。それはこんな文章だった。
「……この大蛇神の子孫であるという日の本神社の宮司の身体には、しばしば蛇の鱗《うろこ》にも似た薄紫色の痣《あざ》が出ると言われている。日の本村の人々は、その痣を『大神のお印』と呼んで貴んでいる……」
蛇の鱗模様の痣……。
それが、「大神のお印」?
それでは、「日女」であったという倉橋日登美の血を引く火呂の身体にあるあの痣は、この「大神」と呼ばれる蛇神の末裔《まつえい》の証《あか》しということなのだろうか……。