「蛍子ちゃん、電話」
かかってきた電話に出た同僚の声に、デスクでパソコンをいじっていた喜屋武蛍子は、画面から顔をあげた。
「誰?」
「ダテっていう人」
その名前を聞いて、蛍子の心臓がかすかに鳴った。例の店で別れて以来、伊達浩一からは全く連絡がなかった。携帯の番号は聞いていたから、こちらからかけてもよかったのだが、なんとなくためらうものがあった。
神日美香の身上調査の報告を受けた時点で、既に「探偵と依頼人」という関係は消滅している。蛍子の方から伊達に電話をかける「口実」がなかった。
最後に会ったとき、伊達は、近いうちに、長野県の日の本村へ行ってみるつもりだと言っていた。向こうで何かつかめば、伊達の方から連絡してくれると思っていた。携帯の着信音が鳴るたびに、彼からではないかと期待した。しかし、あれから十日以上がたつのに、何の連絡もない。
もしかしたら、あのあと、他の仕事が忙しくなって、調べたところで一文の得にもならないことなど後回しになってしまったのかもしれないな、と蛍子は思っていた。
でも……。
どうして携帯にかけてこないのだろう。
目の前の受話器を取りながら、蛍子はやや不審に思った。今までは必ず携帯の方にかけてきたのに……。
「お待たせしました」
受話器を耳にあて、そう言いかけると、
「喜屋武さん? 喜屋武蛍子さんですね」
すかさず聞き返す声がした。伊達の声ではなかった。女性の声である。
「はい、そうですが……?」
ダテと名乗る女性の声。蛍子の頭に、一瞬、「もしや」という思いが閃《ひらめ》いた。
「お仕事中すみません。わたし、伊達かほりと申します。伊達浩一の家内です」
予感は的中した。蛍子はすぐに言葉が出なかった。
「あの……」
伊達の妻? 伊達の妻が一体何の用だろう。しかも、会社に電話してくるなんて。それより、どうして私のことを知っているのだろうか。伊達から聞いていたのか。蛍子の頭は様々な思惑で混乱していた。
うろたえることは何もないじゃない。
蛍子は妙に動揺している自分を心の中で叱りつけた。ここ数回、立て続けにあの店で伊達と会っていたといっても、やましいことは一切していない。いわゆる「焼けぼっくいに火がついた」という関係ではないのだから。少なくとも、表面上は……。
「あの、今、ちょっとよろしいでしょうか」
伊達かほりは遠慮がちの声で言った。
「ええ……」
「主人のことなんですが……どこにいるかご存じありませんか?」
ややためらったあとで、伊達の妻は思い詰めたような声でそんなことを言い出した。
「は?」
と、蛍子は思わず聞き返した。
「どういうことでしょうか?」
「主人、帰ってこないんです。二日の朝、仕事で信州に行くと言って家を出たきり……。あれから何の連絡もないし、主人の携帯にかけても、全然通じないんです。電源が切れているか圏外とか言われて……」
九月二日といえば、あの店で伊達と別れた日の翌日だった。ということは、伊達は、やはり日の本村に出掛けたのだろうか。
それっきり、帰ってこない……?
蛍子は受話器を握り締めたまま、なんともいえない嫌な胸騒ぎを覚えた。