「あの、今日はお休みですか……?」
臆病《おくびよう》な小動物が扉の陰から顔を覗かせるような様子で、伊達かほりはおずおずと言った。
「いや、どうぞ。やってますよ」
マスターがそう声をかけると、ほっとしたような顔になって中に入ってきた。
「表の看板の明かりが消えていたのでお休みかとも思ったんですけれど、中から音楽が聞こえてきたので……」
伊達かほりは、そう言って、蛍子の方に会釈すると、隣のスツールに腰掛けた。
「何になさいます?」
マスターが聞いた。
「あの……喜屋武さんと同じものを」
ちらと隣の蛍子のピンク色のカクテルの少し残ったグラスを見て、かほりは言った。
「今ちょうどマスターと伊達さんの話をしていたんです。あれから何か分かりました?」
蛍子が聞くと、かほりは疲労を滲《にじ》ませた顔で、
「実は、今朝、警察の方から電話があって———」
と言いかけた。
「警察?」
蛍子はぎょっとしたように聞き返した。伊達のことで何か分かったのか。
「東京湾で男性の水死体が発見されたっていうんです」
「水死体……」
蛍子は愕然《がくぜん》としたような顔を隣の女に向けた。シェーカーを振りかけたマスターも、凍りついたように手を止めた。
「まさか、それが……?」
「発見された状況からみて、自殺らしいんですが、身元を表すようなものを何も身につけていなかったらしくて、年格好が主人に似ているようなので、遺体を確認して欲しいと……」
伊達かほりは、そこまで声を詰まらせながら言うと、ハンドバッグからハンカチを取り出して、吐き気がするとでもいうように、それで口を押さえた。
「それで? 伊達さんだったんですか」
蛍子は殆《ほとん》ど噛《か》み付くように聞いた。
しかし、伊達かほりは口元をハンカチで押さえたまま、激しく首を横に振った。
「違いました。主人ではありませんでした。人相は少し変わってましたけど……でも、分かりました。主人じゃありません」
くぐもった声で言った。
「そう……」
蛍子は、安堵《あんど》のあまり、身体から力が抜けるような思いがした。
水中にいた時間にもよるだろうが、溺死体《できしたい》というのは見るに耐えないものだと聞いたことがある。まして、それが自分の身内かもしれないと思えばなおさらのこと。吐き気をこらえるようにハンカチを口に強く押し当てているかほりの様子から見ても、それが直視に耐えられない遺体であったことは十分想像できた。
「いつまでこんな思いをしなければならないのか……」
伊達かほりは嗚咽《おえつ》をこらえるような声で言った。一見したところ、これまでたいして波乱もない平穏な人生を生きてきた、いかにもお嬢さん育ちといった風情の彼女には、それは、拷問にも等しい経験だったに違いない。
遺体が夫ではなかったと分かってほっとしたのもつかの間、夫に年格好が似た身元不明の男の死体が発見されるたびに、彼女は、これから先もこの拷問を繰り返し受けなければならないのだ。
「そう思ったら、なんだか、このままうちに帰りたくなくて、お酒でも飲みたくなって……でも、わたし、あまりお酒とか飲めるところ知らなくて、それで、ここのこと思い出したんです。ここだったら、女が一人でも安心して飲めそうな雰囲気だったし、主人が学生の頃から通ってたっていう店だし、ここに来たら、なんだか彼に会えそうな気がして……」
かほりはハンカチを握り締め、耐えかねたように泣きじゃくりはじめた。
蛍子も同じ気持ちだった。今日、会社帰りにこの店に足が向いてしまったのは、あの扉を開けたら、何事もなかったように、そこに伊達がいるのではないか。「やあ、元気」とかいつもの軽い調子で話しかけてくるのではないか。
ふとそんな気がしたからだった。
だから、伊達かほりの気持ちは痛いほど分かる。まして、元恋人というのにすぎない自分に対して、彼女は妻であり、まだ幼い二人の子供までいる。その不安、その焦燥は、今蛍子が感じているものの何十倍、いや、何千倍であるに違いない。
そう感じたからこそ、空々しい慰めの言葉などかえって口にできなかった。泣けばいい。涙が涸《か》れるまで泣けばいい。涙には癒《いや》しの効果があるという。ひたすら泣くことで、彼女が今までに溜《た》め込んだストレスや不安が少しでも薄れるならば、泣けばいい。そう思って、ただ、細い両肩を震わせて泣いている女の背中に軽く手を添えただけで黙っていた。
そして、女の身体の震えを手に感じながら、なぜ、伊達浩一がこの女を生涯の伴侶《はんりよ》に選んだのか、なんとなく分かったような気がした。見合いに近い出会いだったと彼は言っていたが、彼自身も気づかぬうちに、この女性にひかれていたのではないか。わたしとは何もかもが違うこの女性に。わたしなら、何があっても、こんな風に素直に人前で自分の感情を吐き出すことはできない。泣きじゃくることなんてできない。わたしなら、人前では、「大丈夫、大丈夫」と笑顔すら見せて、そして、誰もいないところで一人で泣く。でも、たぶん、この人のこんなところを、伊達は何よりも求めたのだろう……。
蛍子は苦い気持ちでそう思った。
老マスターも同じ思いらしく、慰めるでもなく、無言で、ピンク色のカクテルを作って、泣きじゃくっている女の前に差し出しただけだった。
「……ごめんなさい。わたしったら、つい取り乱してしまって」
ひとしきり泣きじゃくったあと、ようやく気が済んだのか、伊達かほりはそう言うと、鼻水をすすりあげながら恥ずかしそうに言った。
「ずっと泣くに泣けなくて。うちで泣くと、子供が不安がるんです。上の子はまだ二歳なのに、何か変だと思ってるみたいで。パパどうしたの。パパどうして帰ってこないのって、しきりにわたしに聞くんです。そのたびに、パパはお仕事が長引いているのよ。もうすぐ帰ってくるわよって言い聞かせているんですけど」
そう言いかけ、また新たな涙で言葉を詰まらせた。
「あの、今、お子さんは……?」
蛍子は思わず言った。うちには二人の幼児だけなのだろうかと気になったのだ。
「子供なら、今日は母が来て見てくれています」
そう答えて、目の前のカクテルにようやく気づいたように、かほりはそれに口をつけた。そして、一瞬、耳をすませるような表情になったかと思うと、何かを発見したように、「あ。この曲……」と言った。
「この曲がどうかしましたか?」
マスターが聞くと、伊達かほりはようやくかすかに笑顔を見せて、
「この曲、主人の好きな曲です。よくうちでも一人で聴いてましたから。なんて曲なんですか。わたし、ジャズのこととか、よくわからなくて……」
「AS TIME GOES BY。『時のすぎゆくまま』というんです」
マスターが言った。
「時のすぎゆくまま……いい曲ですね」
かほりは呟《つぶや》くように言うと、あとは黙ってカクテルを啜《すす》りながら、曲に聴き入っていたが、その曲が終わると、それを潮時とばかりに、「母が心配しているかもしれません。わたし、そろそろ」と腰を浮かしかけた。
「タクシー、呼びましょうか」
マスターがすかさず声をかけると、伊達かほりは首を振り、「いえ、そこで拾いますから」と言い、蛍子の方に向き直ると、「何か新しいことが分かったら知らせる」と約束して、来たときよりは少し元気そうになって、店を出て行った。
蛍子は二杯めのカクテルを前に、なんとなく口をきく気にもなれず、カウンターに頬杖《ほおづえ》をつき、ぼんやりとしていた。
曲はいつのまにか、またあの曲になっていた。
「伊達さん……あなたと別れたあと、ここへ来るたびにこれを聴いていたんですよ」
マスターが何を思ったのか、ふいにそんなことを言った。
「え……」
蛍子は夢からさめたような顔で、マスターの方を見た。
「こればっかり、繰り返し繰り返し何度もね。あの日も……あなたがたが五年ぶりに再会したあの日も。おぼえてますか、この曲がかかっていたことを」
「ええ」
「あの日、彼は一時間も前に来て、あなたが来るまで、繰り返し聴いていたんです。この曲ばかりをね……」