十月十日。土曜日。
喜屋武蛍子は長野駅前で拾ったタクシーを、「白玉温泉前」と表示されたバス停の近くで降りた。タクシー運転手の話では、ここからは日の本神社の参道になるので、車では行けないということだった。しかし、日の本寺までなら、歩いても十分足らずだという。
料金を払うと、蛍子はボストンバッグをさげ、深い藍《あい》色の山々に囲まれた田舎道をとぼとぼと歩き出した。
さすがに空気が違うなと感じた。それは長野駅に降り立ったときから感じていたことではあったが、その長野駅から車で二時間弱という、この辺りまでくると、空気はさらに玲瓏《れいろう》と澄みきっているような気がした。
一匹の赤トンボが、まるで道案内でもするように、すいすいと手前を横切りながら飛んでいた。午後三時を少し回った頃だというのに、日の傾き方が早いというか、あたりにはそこはかとなく夕暮れの気配が漂っていた。
少し行くと、半分朽ちかけたような、古びた両部鳥居が見えてきた。雨風に晒《さら》された筆文字で、「日の本神社」とかろうじて読み取れる額をいただいた鳥居の貫木《ぬきぎ》には、まさに大蛇を思わせるような太いしめ縄が張られていた。
その向こうは杉の参道になっている。
参道をしばらく行くと、三差路に分かれていた。タクシー運転手の話では、日の本寺に行くには右手に曲がればいいということだった。
右の道を少し行くと、すぐに寺の門が見えてきた。中に入り、玄関先で、植木鉢に水をやっていた老女に、「宿泊予約していた喜屋武ですが」と言うと、住職の妻らしき老女は、蛍子を四畳半ほどの和室に案内してくれた。
狭いが掃除の行き届いた気持ちの良《い》い部屋だった。赤い花の一輪挿しが竹の筒に入れられて卓上に飾られていた。
お茶をいれてくれたあとで、宿帳のようなものを差し出された。
「ご旅行ですか……?」
蛍子が宿帳に書き込んでいる間、老女は愛想よく尋ねた。
「実は、こちらにお世話になったある人のことで、ご住職にお尋ねしたいことがありまして」
蛍子はそう言いながら、サインし終わった宿帳の前のページをめくってみた。案の定、そこには、「伊達浩一」の名前があった。日付は九月二日となっている。
「この伊達浩一という人なのですが……」
宿帳のその欄を指さして言うと、それまで愛想笑いを浮かべていた老女の顔が心なしか強《こわ》ばったように見えた。
伊達浩一がこの村を出てから行方不明になっていることを告げると、老女はやや警戒するような顔つきになって、「お身内の方ですか」と尋ねた。
「いえ、友人です。でも、ご家族もとても心配しているんです。あれから何の連絡も手掛かりもないので。それで、もし、ご住職から何か伺えたらと思いまして」
蛍子が言うと、老女は、「さようでございますか。それはご心配でしょうねえ」と同情するように頷《うなず》きはしたものの、「そういえば、先日、その方のことで警察の人がみえましてね、そのとき、わたしどもが知っていることは全部お話ししましたから……」と、なんとなくこの話題にこれ以上触れることを嫌がるようなそぶりを見せた。
「ご迷惑かとは思いますが、もう一度だけ、お話をきかせていただけないでしょうか。あれから何か思い出されたことがあるかもしれませんし」
そう食い下がると、老女は、不承不承という態度ながらも、「主人を呼んでくる」と言い残して、部屋を出て行った。
住職を待つ間、蛍子は、暇つぶしを兼ねて宿帳をぺらぺらとめくってみた。観光地ではないからそれほど泊まり客はないだろうし、この分厚さから見て、何年か分の宿泊客の記録がありそうだった。
伊達浩一の名前のすぐ後に「大久保松太郎・浅子」という夫婦らしき名があった。日付は九月三日になっている。伊達が泊まっていたころ、他にも泊まり客がいたらしい。もしかしたら、この夫婦(?)から後で何か聞き出せるかもしれない。
蛍子はそう思いつき、バッグから手帳を取り出すと、そこに記された住所と電話番号を写し取った。住所は千葉県館山市となっていた。
ページを溯《さかのぼ》っていくうちに、「葛原日美香」の名前を見つけた。日付は「五月十五日」となっていた。どうやら、神家に養子に行く前に、この村を訪れたとき、ここに宿泊したようだった。
さらにページを繰っているうちに、蛍子の目は一人の男の名前に釘付《くぎづ》けになった。「達川正輝《たつかわまさてる》」
この村のことを調べていたという週刊誌記者に違いない。日付は、平成九年、十月二十日となっている。
やはり、達川という週刊誌記者はこの村に来て何か調べていたのだ。蛍子は再び手帳を開くと、達川の住所と電話番号もメモした。
この男があの達川だとすれば、既に亡くなっているわけだから、住所を知ったところで会えるわけではないのだが、いずれ何かの役にたつかもしれないと思い、反射的にしたことだった。
ちょうどメモし終わったとき、廊下の方から足音がした。蛍子は、素早く手帳をバッグにしまい、開いていた宿帳を閉じて元に戻した。
襖《ふすま》が開いて、入ってきたのは、袈裟懸《けさが》けの僧衣を纏《まと》った老住職だった。