「天叢雲の剣って、ヤマタノオロチの尾から出てきたという……?」
老住職が何を言い出すのかと、蛍子はびっくりしながら聞いた。
「さようです。あの天叢雲の剣。後には草薙の剣とも呼ばれた三種の神器の一つ……」
住職は大きく頷いた。
「で、でも、どうして、ヤマタノオロチの尾から出てきた剣が」
そう言いかけると、住職は、記紀では出雲の怪物のように描かれているあのヤマタノオロチこそが、古代の太陽神であり、この大神と同体の神であると答えた。そして、出雲大社の真の御祭神でもあると。
「……ということは、出雲大社の祭神といわれているオオクニヌシの正体は蛇で、実はヤマタノオロチだったということですか」
蛍子は思わず聞いた。
「そういう解釈もできますな。そもそもオオクニヌシという名前は固有名詞ではなく、『国の主』すなわち『国王』とでもいうような意味なのですが、このオオクニヌシには別名が幾つもあって、その中の一つは、オオモノヌシといって、三輪山の神の別名であるともいわれております。それに、もう一つの別名であるオオナムチというのも、本来は山の神である蛇の意味がありますのじゃ……」
太古、やはり物部系の部族が支配していた出雲の地でも、物部の神祖である蛇神が祀《まつ》られていたが、後に、物部氏が没落し藤原氏が政権を握ると、出雲大社の祭神が物部系の蛇神であることが隠されてしまった。
それどころか、この蛇神は、記紀の中では、ヤマタノオロチという醜い怪物に貶《おとし》められて、須佐之男命《スサノオノミコト》に退治されるという話まででっちあげられてしまった。
そもそも、大蛇をずたずたに剣で切り殺すという退治の仕方は、実は、古い蛇を殺すことで新しい蛇を蘇《よみがえ》らせる蛇神族の再生の儀式を歪《ゆが》めて伝えたものである。
出雲神話のハイライトというべき、あのヤマタノオロチ退治の話とオオクニヌシの国譲りの話は、もともとは、大和の地で起こった政争———神武天皇が大和入りしたとき、先にその地を支配していた天孫族のニギハヤヒノミコトが神武に国譲りする話———を二つの逸話に分裂させて写しとったものなのである。
神話の中では「国譲り」などとさも平和的に政権交代が行われたかのように描かれているが、むろん、そんなことはなく、そこには血で血を洗うような烈しい戦闘があったに違いない。
古事記では、このとき、ニギハヤヒは国譲りに反対した義兄のナガスネヒコを切り捨てたとあるが、一説によれば、殺されたのはニギハヤヒ自身であったともいわれている。
つまり、記紀の中で、ヤマタノオロチの尾から出てきたとされている剣とは、実は、このとき、神武がニギハヤヒから奪った「覇王の剣」のことなのである……。
住職は、垂れ下がった白い眉毛《まゆげ》をふしくれだった指でしきりに撫《な》でながら、そんなことを滔々《とうとう》と語った。
蛍子は、それを聞きながら、そういえば沢地逸子のコラムにも似たようなことが書かれていたなと思い出していた。
「……ですから、天叢雲の剣が大神の御手に戻るまでは、大神の御顔から憤怒の相が消えることはないといわれていますのじゃ」
そして、その怒りの深さゆえに、大神はしばしば祟《たた》りをなすという。
「祟り?」
「さよう。古くは疫病から、今までこの国を襲った大地震や台風、火山の噴火といった大災害はすべて、大神の祟りによるものなのです。最近でいえば、あの神戸の震災……。あれもむろん大神がなされたことじゃ。祀り方が不十分だと、大神はひどくお怒りになるのじゃ」
「…………」
「それでも、この国を壊滅させるだけの大きな災害はまだ起きてはいない。神戸を襲ったよりも遥《はる》かに大きな地震がいずれ関東それも日本列島の心臓部ともいうべき首都圏を襲うと言われ続けながら、なぜ、まだ起きないのか。そろそろ富士が噴火してもおかしくない時期にきているのに、なぜ、まだ噴火しないのか。なぜだと思われまする? なぜ、この程度で済んできたのか」
「さ、さあ……」
「起きなかったのではない。起きることを阻止してきたからじゃ。大神の子孫である我々が、千年以上にもわたって、この地に大神の御霊《みたま》を厳重に封印し、日々心をこめて祭りあげることで、お怒りをなんとか和らげてきたからじゃ。我々こそが、この日の本村こそが、千年の長きにわたって、この国を密《ひそ》かに守ってきたんじゃ。
ここで、もし、我々が大神を祭りあげることをやめれば、大神の御霊を閉じ込めた封印を解けば……どういうことになるかお分かりか。この国は大変なことになる。これまでかろうじてくい止めてきたありとあらゆる災害に一気に襲われるじゃろう。いや、この国どころではない。世界中が大災害に巻き込まれることにもなりかねない。地球の滅亡にもつながりかねないのじゃ。
だが、ここで、大神の御手に失われた剣を取り戻し、大神を日本の祖神、最高神と認め、国をあげて祀りあげるようになれば、大神のお怒りもようやく鎮まるじゃろう。そうなれば、この国はさらに繁栄し、末長く安泰なのじゃ。
滅亡か安泰か。我々は、今、それを選ばなければならない時期にさしかかっておる……」
最後の言葉は殆《ほとん》ど独り言に近かったが、蛍子は聞き逃さなかった。
そっと盗み見ると、掛け軸を凝視している老住職の深い皺《しわ》に埋もれたような目は、それまでの田舎の好々爺《こうこうや》めいた色は消えうせ、何かに憑《つ》かれたような狂信的な輝きを放っていた。