十月十一日、日曜日。
蛍子は日の本寺で朝食を済ませると、寺から借りた自転車に乗って、村長宅に出向いた。
既に住職を通じて訪ねて行くことは電話で伝えてあったので、訪れると、エプロン姿の村長夫人がすぐに現れて、応接間に通してくれた。
村長宅も、見かけは神家に劣らぬような古い日本家屋だったが、応接間は、最近建て直したような現代的な洋風の造りになっていた。
その部屋に案内されて入って行くと、来客用のソファには、これからゴルフにでも行くような派手なポロシャツ姿の太田村長が既に腰掛けて待っていた。
年の頃は四十代半ば、酒焼けしたような赤ら顔の体格の良い男だった。
「まあまあ、どうぞ」
太田久信は、入ってきた蛍子の全身を頭から足のつま先までじろりと見渡してから、いかつい顔に愛想笑いを浮かべて、手前の椅子《いす》を勧めた。
蛍子は名刺を取り出して太田に渡した。「ほほう。東京の出版社にお勤めですか。それはそれは」
何がそれはそれはなのか分からないが、太田村長は名刺を一目見ると、感心したように言った。
「電話で住職から大体の話は聞きましたが……。それにしても、ご友人が一カ月以上も行方知らずとは、さぞかしご心配なことでしょうなあ」
太田村長はそう言って、蛍子の名刺をテーブルに置くと、タバコケースからタバコを一本取りあげ、手近にあったライターで火をつけようとした。
古ぼけたガスライターで、火がつきにくいらしく、舌うちしながら、何度かカチカチとやって、ようやく火をつけると、そのライターを放り出すようにテーブルに置いた。
「それで、ご迷惑かとは思ったのですが、何か手掛かりになるようなお話を伺えないかと……」
蛍子がそう言うと、
「いやいや、迷惑なんてことはありませんがね。ただ、お役にたちたいのは山々なんですが、何か手掛かりと言われてもねえ」
太田は大股《おおまた》を開いてソファにふんぞりかえると、タバコの煙を鼻から盛大に吐き出しながら困ったように頭を掻《か》いた。
「九月四日のことですが……」
神郁馬に聞いたようなことを太田にも尋ねてみた。すると、太田は時折天井を仰ぎ見ながら、思い出すように話してくれた。
あの朝、郁馬の運転する車で、バス停の近くまでくると、旅行カバンをさげた中年男が前を歩いていた。郁馬がクラクションを鳴らして、男の注意を引き、車の中から呼び止めた。その男がバスで長野駅まで行くところだというので、ちょうどそちらに向かうところだった自分たちの車に同乗させた。そのとき、男が乗りこんだのは助手席だった……。
そう語る村長の話は、神郁馬の話と何ら食い違うところはなかった。
しかし、車の中でどんな話をしたかということになると、やはり、郁馬同様、よくおぼえていないと村長は答えた。
「いやね……私の方はあまりその……えーと伊達さんでしたか? 伊達さんと口をきくことはなかったんですよ。挨拶《あいさつ》した程度でね。郁馬さんの方は面識があるみたいだったが、こちらは初対面だったし、至急に目を通しておかなければならない書類があったもんだから、そちらに気を取られていましてね。だから、何を話したと私に聞かれてもねえ……」
太田はそんなことを言いながら、タバコをふかし続けた。
二時間以上も同じ車に乗っていて、何を話したか全くおぼえていないというのは不自然と疑うこともできたが、あれから一カ月以上もたっていることでもあるし、よほど印象に残る事でもない限り、人間の記憶なんてこんなものかもしれないとも思えた。
村長からもなんら耳寄りの情報は得られなかったか、と内心がっかりしながらも、そのとき、蛍子の視線はあるものに釘付《くぎづ》けになった。
それは、さきほど太田がタバコに火をつけてテーブルの上に無造作に放り出したガスライターだった。
見たところ、所々金メッキが剥《は》げて錆《さび》が浮き出た、さほど高価でもない古いタイプのガスライターにすぎなかったが、太田村長がこのガスライターを手にしたときから、蛍子はなんとなく気になっていた。
思い過ごしかもしれないが……。
そう思いながらも、蛍子は思い切って聞いてみた。
「あの、そのライターは太田さんのものでしょうか」
「ライター?」
太田は吸い切ったタバコを灰皿の上でもみ消しながら、不意をつかれたような顔つきで、ちらとライターの方を見た。
「いや、これは……」
自分のものではないと太田は言った。
先日、タバコを吸おうとしたところ、手近のマッチが切れていたので、そばにいた妻にそのことを言うと、妻がエプロンのポケットからこれを出してきたのでそのまま使っていただけだと説明した。
「……家内は昼間子供たちがおもちゃにしていたのを取り上げたと言っていたが」
太田はそう言い、ライターを手にして、蛍子の方を見た。
「これが何か……?」
「伊達さんがいつも持っていたライターによく似ているんです。ちょっと見せてもらえませんか」
蛍子がそう言うと、村長の顔に一瞬奇妙な表情が浮かんだ。
「し、しかし、随分古いもののようですよ? まるで年寄りが持つような」
太田は身を乗り出してテーブル越しにライターを手渡しながら言った。
「亡くなったお父さんの形見だそうです。それで、何度も修理しながらずっと大事にしてきたのだと聞いたことがあります」
蛍子はそう言いながら、手渡されたライターを手の中でじっくりと観察した。似ている。これといって目印や特徴はないが、全体の感じが伊達が持っていたライターによく似ていた。
あの日、九月一日の夜、最後に会った夜も、伊達はこのライターを持っていた……。
「子供たちがおもちゃにしていたって……どういうことなんでしょうか」
ライターを手にしたまま尋ねると、村長は、「子供たちといっても同居している従弟《いとこ》の子なんですが、私も詳しくは———」と言いかけたが、ちょうどそのとき、村長夫人がお茶を載せた盆を持って入ってきた。
太田が妻にライターのことを聞くと、夫人は、
「それなら、一週間ほど前、俊正ちゃんたちが庭でおもちゃにしていたんですよ。枯れ草に火をつけたりして。火事にでもなったら大変だと思って取り上げて、エプロンのポケットに入れておいたんですけど」
テーブルにお茶を置きながら、それがどうしたという顔で言った。
「子供たちはなんでライターなんか持っていたんだ?」
太田が聞くと、夫人は、「さあ」と首をかしげ、「どこかで拾ったとか言ってましたけれど……」と言った。
「どこで拾ったか分かりませんか?」
蛍子はすかさず村長夫人に尋ねた。
やはり、これは伊達のライターに間違いないと思った。伊達はこの村に滞在中にライターをどこかで落としたのだ。それをここの子供たちが拾った。そういうことではないだろうか。
「さあ、どことは……」
村長夫人は分からないというように首をかしげた。
「俊正ならその辺で遊んでただろ。ちょっと呼んできなさい」
太田は妻にそう命じた。
「ええ……」
夫人は空の盆を持ったまま応接間を出て行った。
しばらくして、兄弟らしき顔立ちの似たわんぱくそうな少年が二人、村長夫人に伴われて入ってきた。真っ黒に日焼けした年かさの方は七、八歳で、学校で着る体操服のような白い長袖《ながそで》シャツを着ていた。その胸には、「やべ としまさ」と書かれた布が縫い付けてある。
矢部……。
もしかしたら、この少年が、あの昭和五十二年の倉橋一家殺害事件の犯人である矢部稔の子供だろうか。
蛍子は咄嗟《とつさ》にそう思った。
そういえば、伊達の話では、刑期を勤め上げて出所したあと、矢部稔は日の本村に帰り、すぐに結婚して、今は母かたの伯父《おじ》にあたる村長宅に同居しているらしいということだったが……。
年下の少年の方は五、六歳に見えた。あの事件の被害者の中には、倉橋日登美の長男にあたる五歳の幼児もいたという古新聞のコピー記事を蛍子はふと思い出した。
二十年前、五歳の幼児をも無残に手にかけた男が今は同じ年頃の幼児の父親になっている……。
刑期をちゃんと勤め上げ、罪は償ったのだから、たとえ殺人犯といえども家庭をもち普通の生活をする権利があるといってしまえばそれまでだが、そこに何か理不尽なものを感じざるを得なかった。
太田が年かさの子供にどこでライターを拾ったのか聞くと、なぜか、少年の顔には脅《おび》えたような表情が走った。そして、すぐには答えず俯《うつむ》いて黙っている。
「ライターをどこで拾ったかって聞いてるんだよ。早く答えろ」
少年が押し黙っているのに苛《いら》ついたように、太田が頭ごなしにどなりつけると、少年は今にも泣きだしそうな顔になって、かろうじて聞き取れるような小さな声で答えた。
「じゃ……蛇ノ口です」