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私の西域紀行38

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十八 崑崙山中一泊 五月十八日、昨日吉川さんが発熱したので、今日は通訳なしのアチャン(阿羌)行きになる。郭宝祥氏と且 
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 三十八 崑崙山中一泊
 
 五月十八日、昨日吉川さんが発熱したので、今日は通訳なしのアチャン(阿羌)行きになる。郭宝祥氏と且 末《チエルチエン》県党委員会の人たち三人がついて下さる。アチャンというのはこのチェルチェンの町から西南一〇〇キロ、崑崙山中の集落である。
 九時二十分、出発。町を出ると、すぐ両側に耕地が拡がって来、路傍には水路が走っている。水はゆたかである。暫く農村地帯を縫ってゆく。この辺りの耕地はオリーブの木で囲まれているところが多い。おそらく風よけのためであろう。チェルチェン郊外は何となくきちんと整理されている感じである。
 道に沿って、幾らか赤味を帯びた土屋の農家が、それぞれ同じような土塀に包まれて竝んでいるが、二列、あるいは三列のポプラ竝木に半ば匿されていて、なかなかいい感じである。家の前に水路が置かれてあるところは、四列、五列のポプラに匿されている。白壁の農家は殆ど見ない。農村地帯には水溜りが多い。
 九時三十分、早くも硝土不毛地帯に出る。一望の不毛地で、道は小砂利道、路傍には小さいポプラが竝んでいる。が、次第にあたりはゴビ(戈壁)に変って行く。やがて崑崙より引いてある滔々たる用水路を渡る。黄色の濁流である。左手遠くに低い山脈がどこまでも続いている。
 九時四十分、今まで走って来た道から逸れて、ゴビに入って行く。道はない。多少轍《わだち》の跡があるだけである。先導車のあとに随って行く。行手に断層があり、そこを上ると、やはり同じゴビの拡がり、そのまっただ中を走って行く。多少三台のくるまはばらばらになって走り出す。ゴビの中には同じ方向に向って、轍の跡が何本かついており、そのどれを選ぼうと自由であるが、多少運不運はあるようである。悪路を避けるには、運転手君の勘がものを言ってくる。一木一草なきゴビのドライブは続く。
 十時十分、ゴビの乾河道に突き当る。他の二台は乾河道を突切って渡ってゆくが、私のジープは乾河道の中を、上手に向って走って行く。流れの跡なので折れ曲っているが、却ってこの方が動揺が少く、早く走れるようである。五分ほどで乾河道を出て、断層を上る。上もまた同じゴビの拡がりである。やがてまた行手の断層を上る。こうして地盤は次第次第に高くなって行くのである。
 また一つ、断層を上る。こんどは沙漠の様相を呈しているゴビが拡がっている。砂丘としか思えぬものが無数に波立ち拡がっている。先導車は忽ちにして砂に埋まる。ジープ三台、それぞれ難行苦行である。どうにかしてその地帯を脱けると、あとは砂と小石ばかり、一木一草なく、地面は絶えず大きく、或いは小さくアップ・ダウンしている。
 十時三十分、大きく降りる。川へでも降りて行く感じであるが、降り切ると、一面に白いものが噴き出している硝土地面が拡がっている。くるまは硝土が固くなっている白い乾河道を走り始める。乾河道は折れ曲り、折れ曲っているが、なかなかしゃれたハイ・ウェイでもある。ゴビと沙漠が入り混じっている地帯で、右にも左にも砂丘が現れており、その砂丘地帯と砂丘地帯の間がゴビになっている。くるまは乾河道のドライブを打ち切って、そうしたゴビの中を走り始める。なかなか豪快なドライブである。もはや轍の跡といったものもなくなっているので、どこを走ってもいい。あちこちにアルカリの乾河道が横たわっている。その中の大きな乾河道に沿って、わがジープは走っている。乾河道を右に渡ったり、左に渡ったり、時には乾河道の中を走ったりしている。
 
 砂丘はいつか黒っぽくなっている。また乾河道を走る。三台のジープは思い思いのところを走っている。わがジープの運転手君は北京からこんどのシルクロード・中国取材班について来ている青年で、多少荒っぽいが、実に勘がよく、腕も確かである。敦煌から楼蘭へとヤルダン(白龍堆)をドライブしているというから、経歴も立派である。しかし、それにしてもジープ顛倒の危険は屡々である。大きく跳ね上がり、車体が斜めになることがあるが、うまく持ちこたえており、その度に異様な声を上げている。激励の言葉をかけてやりたいが、言葉が通じない。シンクーラ(ご苦労さん)と言ってやるだけである。衝突の怖れはないが、顛倒の怖れは常につき纒っている。
 十時五十分、視界は大きく開け、大ゴビの拡がりとなる。次第に地盤は荒れ、沙包子が波立ってくる。そうした中に依然として、乾河道はあちこちに白い腹を見せている。
 やがて、ゴビの上に無数の麻黄が置かれ始める。濃い緑の固まりである。大きいのもあれば、小さいのもある。駱駝草によく似た草で、箒《ほうき》のように、細い緑の葉を素直に伸ばしている。見渡す限りの麻黄の原である。
 十一時、沙包子の上に麻黄が載り始める。ということは、風の強い地帯で、風によって運ばれた砂が麻黄の根もとに吹き寄せられ、次第に団子型に固まって、その上に麻黄を載せてしまうのである。土包子は土団子、沙包子というのは沙《すな》団子である。
 十一時三十分、何回目かの断層面を上って行く。見渡す限りの麻黄地帯。地面全部を麻黄が覆っている。沙包子という沙包子は麻黄を載せ、その間の地面も麻黄、見事という他はない。天涯まで全部麻黄である。こうした麻黄地帯が三十分ほど続く。が、こうした麻黄地帯にも白いところが点々と置かれている。水の流れの跡である。水の道の跡はたくさんある。この麻黄の野を、幾すじもの水が流れている時を想像すると、壮観である。二、三日前のニヤ—チェルチェン間のタマリスクも群落、胡楊も群落、ここの麻黄も群落をなしている。
 十二時、漸くにして麻黄地帯を脱ける。麻黄がなくなると、巨石がごろごろし、黄色に枯れた駱駝草が原野を埋め始める。青い駱駝草はない。また断層を上る。巨石地帯で、巨石と巨石の間を駱駝草が埋めている。しかし、先刻のあの大地を埋めていた麻黄の怖さはない。
 また断層を上る。一望の駱駝草の原が拡がってくる。駱駝草は土の色と同じで区別できないくらいである。道は常にアップ・ダウンが烈しく、その度に車体は大きく跳ね上がる。
 やがて、大きく降って、大乾河道にはいる。駱駝草はまだ、ここをも埋めている。生物の生きる執念を眼のあたりにしている思いである。これほどの高処にも、まだ生きようとしているのである。しかし、極めて当然なことではあるが、駱駝草の株は次第に小さくなってゆく。
 十二時三十分、依然として小さい駱駝草と小石の地帯である。くるまのタイヤがパンクしたので休憩、あたりを歩く。駱駝草以外に僅かではあるが、野高士という匂いのいい草も生えている。
 一時十分、出発。やがて地盤は荒れて来、大小の石がごろごろし、沙包子がその中に散らばっている地帯に入る。パンク、顛倒、何事があっても不思議ではない。巨石、沙包子、断層、乾河道、そうした地帯のドライブが続く。やがて駱駝草の株はすっかりなくなり、白い砂と石ばかりの白い風景に変る。前方にぼんやりと小さい丘が見えてくる。賽《さい》の河原というのはこういうところではないかと思う。
 一時二十五分、前方の丘の端を越えて、いきなり大荒れに荒れた大乾河道の中に降りて行く。到るところ大小の石がごろごろしている荒涼たる河原の風景である。その大乾河道を渡って、対岸の断層を轍の跡に随って、攀《よ》じ登って行って、台地の上に出る。するとすぐ耕地の拡がりが眼に入って来る。道があり、ポプラ竝木があり、土屋が散らばっている。まさに別天地である。アチャンの集落に入ったのである。チェルチェンの招待所を出てから四時間かかっている。集落の招待所に入る。広い前庭を持ち、それがぐるりと土塁のような高い土塀に囲まれている。城塞の跡とでも言いたいような一画である。
 
 アチャンは海抜二九〇〇メートル、崑崙山脈の麓の集落である。チェルチェンから断層を次々に階段のように上って来たが、漸くにして崑崙の麓というか、崑崙の前山の中というか、そうした地帯に入り込むことができたのである。この辺りの崑崙は四〇〇〇メートル、集落のすぐそこに立ちはだかっているのが、崑崙山脈の前山の一つなのであろう。
 アチャンはモンゴル語で“物資が集る”という意味だという。現在、この集落を中心に国営牧場が営まれ、主に山羊が飼われているが、その他に牛や馬の放牧も行われている。チェルチェンの人が食べる肉は、みなここで供給しているそうである。この集落の人口は四〇〇〇、戸数九〇〇、ウイグル人の崑崙山脈の裾における最も大きい定着地である。
 招待所の一室に入って休憩、寝具類は既にチェルチェン招待所から運んで来てあり、羽蒲団まで用意されている。夜になると寒さが厳しいのであろうが、崑崙山脈の麓となると、ちょっと見当がつかない。
 集落の通りを少しだけ歩く。土屋が道の両側に竝んでいるが、無人の集落ででもあるかのように、ただ静かである。セットの町を歩いているような、そんな思いになる。人口四〇〇〇というが、もちろんその大部分は崑崙山脈の裾一帯の放牧地に散らばっていて、このアチャンはその留守部隊の集落といったところであろうかと思う。
 
 四時、二七キロ隔たっているハルメラン(哈拉米藍)河畔の引水洞なるものを見に出発する。牧場に引いている水の引き入れ口で、長いトンネルを造っているという。そうしたものの見学もさることながら、崑崙山脈の中に分け入ってゆくということに大きい魅力を覚える。大体五、六百メートル登りになるというから、引水洞附近は海抜三五〇〇メートル。
 アチャンは全くの土屋の集落である。招待所の門に突き当っている沙棗の竝木の通りが、メイン・ストリートであろうか。先刻まではセットの静かな淋しい村であったが、こんどは招待所の門の前はたいへんな人だかりである。門の一部が壊れて大騒ぎしている。大人も、子供も、初めての外国人を見ようとしているのである。が、期待に応える何ものも持っていないのが残念である。たいして変った顔もしていないし、大入道でもなければ、侏儒《こびと》でもない。
 漸くにしてジープのところに辿りつき、ジープの中に収まる、ジープは走り出す。集落の中で一〇頭ほどの駱駝にぶつかり、更に十数頭の駱駝にぶつかる。
 メイン・ストリートを通って、右に曲り、耕地地帯を少し行ってから、すぐ崑崙山脈の前山が作っている渓谷の中に入って行く。泥土の渓谷である。白い土、白い河原、全くの白い風景である。磊々《らいらい》たる石の河原、ここもまた、ちょっとした冥界の風景である。
 渓谷に沿った細い道を行く。ジープ一台が漸くにして通れる道である。ところどころ桟道になっている。渓谷の斜面にはところどころに羊群が置かれているが、周囲の土の色と全く同じなので、遠くからでは判別できない。時々、はっとするような、ゆるやかな山の斜面が現れ、そこに羊の大群が放牧されているのを見る。谷底では馬の放牧が行われている。
 途中、中年の女が一人、喚《わめ》き叫びながら崖っぷちの道を駈けて行くのを見る。何事が彼女に起ったのであろうか。更に十分程して、騎馬の老人一人と擦れ違う。崑崙の麓の、この渓谷のどこかに住んでいる人であろうか。崖っぷちに紫色の花を着けた馬藍花《ばらか》という花を見る。この花の他には枯れて茶色になっている々草《ちいちいそう》しかない。馬藍花の方は小さい可憐な紫の花を着けている。くるまを停めて、その花をとって貰う。実に美しい。崑崙の花である。
 そのうちに道は荒れに荒れた山峡地帯に入って行く。そしてやたらにアップ・ダウンを繰り返しながら、次から次へと現れる山の中腹を巻いて行く。崖っぷちの細い道を、谷に降りたり、また上ったり、まさに命がけである。断崖のドライブが長く続く。満開の馬藍花、枯れた々草。
 やがて無数の土包子が現れて来、荒涼地帯というか、荒涼渓谷というか、そうしたところのドライブになる。そして全く同じような地帯のドライブが約二時間。そしてその果てに漸くにしてハルメラン集落に到着する。
 ここもまたハルメラン河をまん中に挟んだ崑崙山中の渓谷であるが、河の左岸が多少開けていて、引水洞の工事に携っている人たちの家が十軒ほど建っている。どの家からも女たちが飛び出して来る。子供もいれば、母親に抱かれた嬰児もいる。みんな小屋のような家から出て来て、何とも言えない懐しそうな顔をして近寄ってくる。確かに懐しいに違いないのである。そうした女たちの顔に眼を当てながら、ここ崑崙山中の明け暮れはいかなるものであろうかと思う。
 小さい集落の傍を流れているハルメラン河をカメラに収める。河原伝いに引水洞まで歩いて行く。大勢の人が大人も、子供も、みんなついて来る。ハルメラン河の水の一部を引いた水の取入口で、真暗いトンネルの内部を覗く。内部に入らないかと言われるが、辞退する。水は七〇〇メートルのトンネルによって山の向う側に出て、そこから何本かの用水路となって放牧地に引かれているという。
 ハルメラン河は、ニヤとチェルチェンの間に流れて行くべきであるが、途中で地下に潜ってしまって、そこまで達していないという。崑崙山脈の中で生れ、その大渓谷の中を流れ、そしてやがて地下に潜って消えてしまう河である。
 
 河原の集落で三十分ほど休憩して、すぐ帰途に就く。アチャンまで二時間半かかる。往路も帰路も同じ時間である。
 夜は牧場の人たちが、接待所で歓迎の宴を張ってくれる。雪鶏なるものも御馳走になる。宴会が終ると、間もなく電燈が消える。ランプを持って来てくれたが、いかなる過し方もないので、ランプを消して、すぐ寝台に入る。戸外はさすがに深い闇である。
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