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私の西域紀行41

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:四十一 ミーラン遺址 五月二十一日、今日は一日休息をとりたいところであるが、スケジュウル通り東北八五キロのミーラン(米蘭
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 四十一 ミーラン遺址
 
 五月二十一日、今日は一日休息をとりたいところであるが、スケジュウル通り東北八五キロのミーラン(米蘭)の遺跡に向うことにする。
 風のしずまった時、招待所の広い敷地を歩く。敷地の隅に胡楊の枯れたのが積み上げられている。みな燃料である。タマリスクの根も積み上げられている。ひと抱えもあるその根の大きさに驚く。まるで赤松の幹みたいな根である。これも燃料にするらしい。
 招待所の裏手にものほし場が造られているが、そこに使われている材木も胡楊であれば、敷地内に何本か立っている電柱も、みな胡楊である。みんな多少折れ曲っていて、真直ぐなのはない。
 乾燥が烈しいのか、掌の皮膚のかさかさしたのが、一層ひどくなる。入浴できないことは、南道の町、どこへ行っても同じであるが、そのためではなく、やはり異常な乾燥度のためらしい。
 九時出発、ジープ二台、招待所前の大通りは明け方と同じようにもうもうと砂埃りが立ちこめている。楡と胡楊の竝本を通って、すぐ耕地地帯に入って行く。チャルクリク(若羌)の集落そのものが農村なのである。
 やがて耕地地帯にゴビが割り込んで来る。ゴビも砂埃りで烟っている。幾つかの十字路を通るが、どの辻も砂埃りが舞い上がっている。道の左右には一応緑の耕地が置かれ、泥土で固めた土屋が竝んでいる。老婆と幼児、娘たち二人、それぞれ家の前でジープを見守っている。風の中で生きる人たちである。その周囲で草木という草木は、みな揺れ動いている。
 十分で、集落の竝木は切れ、完全にオアシスは終り、白いゴビの不毛地に入って行く。車をひいて行く驢馬の一団を追い越す。驢馬は朝から働いている。見晴かすアルカリ地帯に小さい沙包子、タマリスクが点々としている。そうしたところのドライブが続くが、やがて一木一草なきゴビ(戈壁)が拡がって来る。九時十五分である。
 壮大なゴビを十分ほど走り続けると、また点々と沙包子が現れ出す。どの沙包子にもタマリスクが載っている。辺りはアルカリ性の白土地帯である。
 が、すぐまたそうしたところを脱けて、何もないゴビに、また沙包子地帯に、そうしたことの繰り返しである。地面はずっと平坦、沙包子地帯にしても、沙包子と沙包子とはあまり密集していず、ゴビの装飾ででもあるかのように、ほどほどにおっとりと置かれている。密集している沙包子地帯の威圧感はない。
 しかし、その密集している沙包子地帯が、左手遠くには続いているらしく、濃い緑が帯のように置かれている。砂が路上を走っている。ジープのフロント・グラスを通して、それが見えている。
 三十五分、これまで真東に走って来た道は大きく左に折れ、先刻から見えている左手遠くの沙包子地帯に近づいてゆき、やがてそのただ中に入って行く。タマリスクの多くは枯れている。遠くから緑に見えたのは麻黄の株であったらしい。
 沙包子地帯を脱けて再びゴビの中へ。動揺烈しく、車体はやたらに跳び上がる。どこかにしがみついていないと、頭が天井にぶつかる。砂は次々に路上を、右から左へと走っている。
 いつかまた左手遠くに沙包子地帯が現れており、それが次第にこちらに近寄ってくる。反対側の右手の方は沙漠で、砂が風でもうもうと舞い上がっている。九時四十五分である。
 やがて再び左右、ゴビになり、こんどは右手遠くの方に沙包子地帯が現れるが、やがてそれが背後に行ってしまうと、左右一望、何もない大ゴビの拡がりとなる。大ゴビのドライブ、いつまでも続く。ゴビに入ってからは、路上を砂が走ることはなくなる。
 十時、ゴビ、小石多くなる。左右眼を遮るものなく、大ゴビのまっただ中を、ジープは五〇キロの速度で走り続ける。
 十時二十分、路面に砂が舞い出す。ゴビも砂に烟っている。長い長いゴビのドライブが続く。空々漠々の疾走である。左手遠くにボーリングの塔らしいものが一つ見える。
 十時三十分、ゴビのあちこちに巨石が置かれ始める。
 十時四十分、道路工事の労務者のテントが幾つか左手に張られているのを見る。行手にオアシスの緑の帯、この頃からゴビには麻黄が、あちこちに顔を出し始める。やがてジープは前のオアシスの中に入って行く。チャルクリク県でただ一つの大きな農場のオアシスで、目指すミーランの遺址は、この農場から五キロの地点にあるという。きれいな集落が現れる。あちこちに建物が見え始め、みごとなポプラ竝木はどこまでも続いている。大きな農場である。通りには驢馬四頭の荷車、トラック、そして人間。
 
 農場の招待所に入り、休憩。新疆維吾爾《ウイグル》自治区巴音郭楞《パインゴル》盟蒙古族自治州農墾局三十六団というたいへん長い名の農場である。人口八〇〇〇、農地二三万五〇〇〇華畝。この農場は一九六五年に造られたが、それまでここはミーランという人家数十戸の小さい集落であった。現在は大きな農場になっているが、土地の人の中には、依然として今もここをミーランと呼んでいる人があるそうである。“ミーラン”はウイグル語で、水草繁茂の意。とにかく曾てミーランと呼ばれていた小集落に、今は清潔で明るい農業大集落が営まれているのである。ここで昼食。
 この農場から五キロのところに、スタインが発見し、羽根のある天使像が出てきたことで、世界的に有名になったミーラン遺址がある。今日はそこを訪ねるのが目的であるが、その前に農場幹部諸氏の説明を聞く。
 ——私たちの知っている限りでは三つのミーランがある。これから訪ねるミーランは古い時代のミーランである。この農場は新しいミーラン、この方は五、六十年、長くても八十年ぐらいの歴史しか持っていない。最近まで百二十歳の老人が生きていたが、その人の話では、子供の時はもう一つのミーランに住んでいたが、河道の変遷と洪水のために住民はそこを棄て、方々に散った。が、その何分の一かの者が、今のこのミーランに移った。——その洪水のために棄てられたというミーランは、ここから三五キロ、タリム河の下流にあった。今もその跡は沙包子群の中に見られ、土煉瓦で造った余り高くない土屋や土塀などの欠片が点々と遺っている。タリム河の岸に位置しているところからみて、住民は農業ではなく、放牧によって生計をたてていたと思われる。私たちはこのミーランを第二のミーランと呼び、今住んでいるこのミーランを新しいミーランと呼んでいる。
 ——第二のミーランが何年ぐらいの歴史を持っていたかは判らない。伝説では、往時はそこに非常にたくさんの人が住んでいたが、天然痘が流行して、ためにみなそこを棄てて、ホータン(和田)方面やイリ(伊犂)地方に移った。それで住民は少くなった。そうした不運な集落であったが、八十年ほど前に、こんどはタリム河の水がなくなって、一人も住めなくなってしまったのである。
 ——古いミーランと第二のミーランの間に、なお幾つかのミーランがあったかも知れない。しかし、今のところでは、そうしたことは一切不明である。
 
 農場を出て、ミーラン遺址に向う。土地の人が古いミーランと呼んでいるスタイン発見の遺跡である。特にここの仏寺の廃墟から出た有翼天使像はヘレニズムの東方における極限を示すものとして、この遺跡を世界的に有名なものにしている。悪路五キロ。殆ど道はなく、ジープは砂の堆積したところや、沙包子地帯の一隅を、大揺れに揺れてゆく。砂埃りの中のドライブである。二度、水をはじいて川を渡る。
 やがて、ゴビ灘のただ中の遺址に入る。別に仕切りがあるわけではないので、気がつかないうちに、ジープはいつか遺跡の中に入ってしまっている。長さ八キロ、幅五キロ、かなり大きい都城址で、前に訪ねたホータン地区のセスビルの遺跡より大きい。大小の土の固まりが点々と置かれている。何の跡か判らないが、小山のような土塊もあれば、ストウパ(塔)の欠片のようなものもある。
 遺跡の中心部に一段と高くなっているところがある。見張台とか望楼とか、そういったものの跡らしい。そこに登ってみる。風が強いので、帽子が何回も吹き飛ばされる。そこからの眺めは大きい。一望のゴビの拡がりのただ中に置かれている都城址で、右手にも、左手にも、遠くに建物の跡らしい土塊が点々と竝んでいる。有翼天使像の壁画の出た仏教寺院址も、どこかにある筈であるが、いずれにしても、みな砂の中に埋まってしまっているので見当がつかない。
 遺跡地帯に隣り合せるようにして、大沙包子地帯が押し寄せて来ている。遠くからでは遺跡の欠片と沙包子との区別はつかない。
 天気がよければ、この遺址からアルキン山脈がすぐそこに美しく見えるというが、今日はどこもかしこも砂で烟っているので諦める他はない。アルキンという山は一木一草ない岩山らしいが、まだ一度も、その山容に接したことはない。足もとの砂を手ですくってみる。白くきらきら光っている。石英が入っているのである。
 北方に眼を向ける。東北方一七〇キロのところに楼蘭遺址は置かれてある筈である。楼蘭はロブ湖北辺、こちらはロブ湖南辺、二つの都城がいかなる関係にあったか正確には判らないが、同じ一連の古い西域文化が花咲いていたことだけは確かであろう。
 東方に眼を向ける。見晴かすゴビの拡がりであるが、やがてそれは流沙地帯に変ってゆく筈である。法顕が敦煌を出て善国に向う途中、“上に飛鳥なく、下に走獣なし。……死人の枯骨を以て標識となすのみ”と記している地帯である。
 スタインの発掘によれば、このミーランの都城は五—六世紀にいったん廃棄され、その後吐蕃の基地として再生、それからまたいつか砂の中に埋まってしまったのである。この城址の持つ歴史もまた容易ならぬものである。
 
 再び農場の招待所に戻って休憩。農場の人たちと、いま見て来たミーラン遺址について話す。
 ——歴史にでて来る善という国の都泥城がミーラン遺址であるという見方が一般に行われている。烽火台もあれば穀倉も発見されており、大きな屯田の跡も、遺跡の周辺から見付けられている。発掘遺跡から見ると、二万人の人が住んでいたと推定される。しかし、瓦石峡農場(昨日、昼食を摂った若羌西方の農場)から一五キロほどの地点に大きな遺跡が発見されており、この方を善国の都と見ている人もある。善国の都がいずれにあったか、両説があって、度々論争が行われている。
 丁度この時、この地に来ていた新疆日報の記者・李簫連女史が姿を見せて、自分の考えを述べて下さる。
 ——私の考えではミーラン遺址は当時の善国の都ではなかったと思う。遺址から判断する限りでは、城廓はそう大きくはない。都としては小さすぎる。寧ろ駐屯地伊循と見るべきではないか。都はチャルクリクの地あたりを想定すべきだと思う。「沙洲図経」という書物に“善の東百八十里に屯城あり、即ち漢の伊循なり”という文章がある。この文章から推定すれば、現在のチャルクリクの地が都、今日見るミーラン遺址が屯城ということになる。またいろいろな古書に、敦煌から善に向うに密蘭というところを通過せねばならなかったと記されている。その密蘭はミーラン遺址のことではないか。それからまたミーラン遺址の周辺に屯所の遺跡がある。これはミーラン遺址即伊循城の有力な根拠であると思う。それから善の都の方は、チャルクリクの地であれ、その他であれ、いずれにせよ、考古学的発掘によらねばならぬことである。当時の善国の規模は八〇〇〇戸、四万人である。善国は前七八年から五世紀中葉まで栄え、そのあと丁零《ていれい》という民族に亡ぼされているが、丁零がいかなる民族か、これまた不明である。それから唐の末期に、ウイグルがこの地に入って来、新疆地区はウイグル化して行くが、この期間のことは、中国の史書に記述はない。
 この他、二、三の農場の人たちが発言したが、ここではそうした幾つかの見解の紹介を割愛する。往古の善国の都がどこであるか、その問題も大切であるが、それより一体当時の善人たちはどうなったか、その子孫はいないのか、そうした質問をしたい気持がこみ上げて来る。しかし、質問しても無駄である。誰にも判らないからである。
 
 チャルクリクの招待所に引き返し、夜、“ミーラン遺址”という詩の草稿をノートに書きつける。この頃になって、ミーラン遺址の明るかったことを憶い出す。遺址というものは大体において、ある暗さを持つものであるが、その点、ミーランは例外であったと思う。たくさんの木乃伊《ミイラ》があの城址には埋まっていることだろうと思うが、そうしたことから来る特別な感慨はない。無常観などというものは、いささかもあの遺跡では成立しないようである。
 ミーランが往古の善国の都・泥城であったか、その屯田地・伊循城であったか、いろいろな見方があるようだが、実際のところは誰にも判らない。それはともかくとして、カロシュティー文字やプラーフミー文字を用いた文書が出ており、仏寺の残骸からはガンダーラ式塑像や有翼天使を描いた壁画が出ている。高い文化を持ったしゃれた住民たちが、少くとも四世紀頃までは住んでいたのである。
 
 五月二十二日、九時三十分出発、今日はチェルチェン(且末)に帰る。一昨日走った同じ道を、今日は逆に引き返すだけのことなので、見送りのジープを断り、ジープ一台にする。途中までチャルクリク側の人たちに送って貰い、途中までチェルチェン側に出迎えて貰うことは、実際に容易なことではないので、その申し出を断ったのである。郭さん、吉川さん、私の三人が同じジープに乗る。
 招待所を出る。大勢の招待所の人たちに送って貰う。再会——また会いましょうという言葉を口から出すが、まあ、再び会うことはないだろうと思う。そんなことを思いながら次々に握手する。洗面器の水を何回も運んで来てくれたウイグルの娘さんたちに、心から感謝して、“再会”という言葉を口にする。
 表通りは、朝のためか多少人通りが多い。驢馬の荷車、少女たちの原色の衣服。漢族の女の子はワンピースにズボン、ウイグルの少女の方はスカートが多い。自転車は少く、みんな歩いている。風が吹くと、メイン・ストリートの上を砂が流れている。驢馬の荷車の上には野菜、それが二、三台、路傍に竝んでいる。小さいバザールである。
 町を出ると、すぐチャルクリク河、大乾河である。上流の方を見ると、薄い山容ではあるが、アルキン山脈が見えている。たいへん近い。チェルチェンでもアルキン山脈が見える筈である。ニヤ(民豊)では崑崙山脈になる。
 ゴビのドライブが始まる。アルキン山脈、折重なって見えている。その前に低い丘がどこまでも長く連なって置かれている。
 一時三十分、沙漠のまっただ中で、ジープ、砂に埋まる。折よく向うからトラックが来たので、車体に鎖をつけて引き上げて貰う。
 一時五十分、チャルクリクから一五〇キロの地点で、大ゴビに入る。左右、見渡す限りのゴビの拡がりである。とたんにジープ動かなくなる。スプリングが折れたのである。この前にも、このジープはスプリングが折れたことがあり、それでも走ったので、たいしたことはないと思う。
 そのうちに車体の下にもぐっていた運転手君の話では潤滑オイルがなくなっているという。自動車に関する知識の絶無の私には、何のことかよく判らない。
 二時、うしろから道路工事のトラックが来る。新疆公路局のトラックである。チェルチェンに行くというので、郭氏、手紙を託す。しかしここからチェルチェンまで二〇〇キロ以上あるので、トラックがチェルチェンに着くのは五時間先きになる。それから迎えのくるまが来るのに、また五時間、従って早く見積っても、救援車が来るのは十時間先き、夜半になってしまう。腹をきめる。ジープの中で眠ったり、ゴビの中を散歩したりする。
 二時間ほどして、チェルチェンの方から二台のトラックがやって来る。その一台にチャルクリク県宛ての手紙を託す。チェルチェンに連絡し、チェルチェンから救援車を派するように依頼して貰う文面である。
 それにしても朝から小用にゆかぬことに気付く。水分は全部皮膚から蒸発しているのであろうか。
 五時、大ゴビを見渡すと、その度にどこかに竜巻が立っている。多少不気味である。そのうちに風が烈しくなり、砂が舞い出す。立ち往生、すでに三時間。しかし、救援車を待っている以外、術はなさそうである。出発の時、見送りのジープを断ったことがいけなかったと思うが、すべてはあとの祭りである。一日五〇キロとして、歩いて帰るとチャルクリクまで三日、チェルチェンまでは四日かかる。こんどの南道の旅で、今日初めてジープ一台にしたら、早速この災難である。やはりこの地帯の一台のドライブは無理である。
 運転手君、車体の下にもぐったり出たりして、一人で奮闘しているが、どうにも手の打ちようがないらしい。車体は到るところ壊れており、動かないのは一つの原因ではないようである。
 五時四十分、道路工事のトラックがやって来る。運転手と若者たちがくるまから降りて、修理を手伝ってくれる。到るところがたが来て、ねじがゆるんでいるらしい。まあ、当然だと思う。みなでタイヤを外して、大修理をやっているが、多少心配にならぬでもない。みんなくるまを壊してしまうのではないかと思う。
 八時二十分、まだ陽がある。早い夕食を摂る。パインアップルの大きな罐詰を一人で全部食べてしまう。パンと羊の白い脂、たいへん美味しい。夜半、大風にでも吹かれると、どんなことにならぬとも判らないので、腹ごしらえだけはしておかねばならぬと思う。
 食後、ゴビを歩いて、いろいろな色の小さい石を拾う。どれもなめらかな表面を持っていて、たいへん美しい。結局は無駄だった長い車体の修繕を打ち切り、手伝ってくれたトラックの若者たちは、みんな自分のくるまに乗り、何か叫びながら手を振って出発して行く。
 
 ゴビを歩いていると、ひえびえとしてくる。九時十分、落日。美しい落日を見ながら、ゴビに腰を降ろして、ブランデーを飲む。
 九時二十分、昼間手紙を託した公路局のトラックがやって来る。このトラックは結局はチェルチェンには行かず、途中の道路工事の事務所から、チェルチェン県の事務所に電話をかけたが、どうしても通じなかったという。
 トラックの男たちは受信機を持って来ており、ここで電話線に電話を結びつけるから、直接話すようにと言う。そしてゴビの中の電信柱に一人が攀じ登る。しかし、結局はこれもだめ。軍の電話を使っているが、なかなか通じないという。そうした作業を遠くから見ている。妙に虚しい風景である。いずれにしても、今日昼間の二時に起った事故が、未だにチェルチェンに通じていないのである。奇妙なことだと思う。チャルクリクヘの手紙もトラックに託しているが、この方も当てにはならぬという気がする。本来、事故というものはこのようなものなのである。結局のところ、今夜はゴビで一夜を明かすことになりそうである。大ゴビの夜がいかなるものか、多少の興味はなくはない。
 十時、ライトをつけたジープがチェルチェンの方からやって来る。チェルチェン県のジープである。チェルチェンから八〇キロの地点で、われわれのジープを迎えるために待機していたが、いつまで経っても来ないので、しびれを切らして、到頭ここまで出向いて来てしまったのだという。公路局の人たちを混じえて、数人であれこれ相談の結果、動かないジープと運転手君を公路局の措置に任せ、郭、吉川両氏と私の三人は、迎えのジープに乗り込んでチェルチェンに向うことにする。
 八時間ぶりで、ゴビを走る。猛スピード、十一時四十五分にゴビのただ中で休憩、北斗七星が美しい。白い半月が美しい。チェルチェンまであと一〇〇キロの地点である。虫の声のようなものを聞く。そのことを誰かに言うと、そんな生きものの声は一切聞えない筈だと言う。そう言われてみれば、そうかも知れないと思う。
 十二時三十分、こんどこそ本当のチェルチェンからの迎えのくるまがやって来て、それとぶつかる。チャルクリクからの電話で事故を知って、救援のために急行して来てくれたのである。中国撮影班の若者三人、くるまには防寒具と、水と、食物が積み込まれている。
 ゴビでまた休憩。ビールを飲んで、月を眺める。月が暈《かさ》をかぶっているので、明日は風が強いという。ジープを乗り替える。車体は、こんどのジープの方がいいそうである。再び出発。
 一時三十分、沙漠の上で立ち往生、タイヤが砂に埋まってしまったのである。まただめかと思ったが、どうにか自力で、強引に砂の中から飛び出す。
 夜半、寒さが加わり、足許が寒くなる。暖房を入れて貰う。日本のくるまの有難さである。ゴビで、あの故障ジープの中で過すとなると、さぞ寒かったろうと思う。動揺の烈しいくるまの中で眠る。
 二時十五分、チェルチェン招待所に入る。NHKの田川氏、和崎氏、共に起きてくれる。洗顔、四時までブランデー。なかなか充実した一日であったと思う。
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