銀座七丁目並木通りで。
焼きソバ屋の屋台。
「……よッ、ただで教えてもらってよ、すまねぇなァ。そのうち返すからよッ。出世払いってことにしてくれよな」
「いいよ、いいよ。いつもこうして顔をあわせて、知らない仲でもないんだからね。それより、あんた、本気でやるのかやらないのか、早く肚《はら》をきめなくちゃ」
「よッ、おれが屋台をやるとしてよッ、これはあれなのかなァ、どこへでも好きなところへひいていってもいいのかなァ?」
「そうだよ」
「福島へひいていってもいいのかい?」
「そうだよ。どこへでもいけるんだ」
「山形でもいいのかい?」
「だろうね」
「やるかなァ、ひとつ」
「やんなさい」
「いま勤めてるのが中小企業でよッ、かりにもう十年勤めても退職金規定ができていないということも考えられるんだなァ。だからこないだからよッ、いっそ屋台でもひいてみるかッて考えてるんだな。気楽でいいからなァ」
「環境衛生がどうとか、道路交通取締りがどうとかって、この道もじつはいろいろとうるさいんだ。だけどね、なんたってね、勤め人よりは気楽さ。それはな。魅力だよな。苦労はあるけれど、どんな仕事したって苦労はあらァね。しようがないよ」
「税金はどうなるんだろ」
「事業所得で申請するんだよ」
「事業所得?」
「うん」
「事業って、なによ」
「これよ」
「屋台がか?」
「そうよ」
「屋台も事業っていうのかね」
「それでいくといいんだ」
「なるほどなァ。屋台も事業っていうのか。へええ」
「屋台も事業だ」
「好きなとこどこへでもいけるんだね?」
「まァね」
「勉強にもなっていいよナ」
「気楽だわ、とにかく」
「よッ。もっといろいろ教えてくれよなッ。なんしろいまの会社は中小企業でよ、なんしろ先行《さきゆき》おっかなくていけねえの」
「おいくら?」
「あ、どうも。六十エンです」
「それで、よッ……」
神宮外苑の森蔭で。
よしず張りにビニール幕をひっかけてかこったおでん屋台。
「なににいたしましょう?」
「バクダンとゴボウ巻き」
「私、大根」
「おや、同性愛だ」
「いやァん。どうして?」
「大根が大根を食べる」
「バカ」
「練馬大根はもっと寒に入ってからのほうがおいしいっていうけどさ、君はどう?」
「失礼ね。私、九州なの。とれたのは鹿児島よ」
「おッ。あなた鹿児島?」
「ええ、そうなんです」
「桜島大根ですよ」
「あそこからはちょっと離れたとこ。でも、桜島大根って、直径二十センチから四十センチくらいになるのもあるのよ。そりゃあ、すごいんだから、もう」
「直径四十。うわァ」
「大きな声ださないの」
「お宅、それでいつもモテるんですか?」
「いやいや、それがねえ」
「バカッ」
「おれは長崎です。よろしくね。なんとかの縁だってね」
「桜島大根、桜島大根」
「京都のべったら漬は聖護院とかいいますが、あれも大きいけれど茶うけなんかにいいですな」
「九州|者《もん》にいいのは名古屋だ。大阪も悪くないけど、名古屋はもっとよかったな」
「あら、そうかしら」
「うむ。名古屋だ。まず、言葉があうんだな。よくキャアとかナモとかっていうけどね、あれは年配の人がいうだけなんだ。若い人はもっと短くいうんだ。なになにしてちょうだいというところをちぢめて、なになにしてチョというのだ。チョとね。そういうのだ」
「あそこは大通りに屋台がずらっと並んでいて、八丁|味噌《みそ》で煮こんだドテ焼なんかあったりしていいですね。パリのブールバール・キャフェが日本にくるとああなるんだな。あの雰囲気《ふんいき》だ」
「なになにしてチョというのだよ。なになにしてちょうだいとまでいわない。チョと、いうのだ」
「おめえは長崎で、おれは函館でよッ、それが毎晩こうして酒くらって仲よくもつれてんだからなあ、人間ッてなあ」
「函館はイカうどんがいいですな。イカをこう千切にして、どんぶり鉢《ばち》に入れて、カッカッカッとワサビ醤油《じようゆ》でかきまぜて食べますね。うまかったな」
「コンニャク」
「はいはい」
「ナイフくださいな」
「はいはい」
「切ってやろう」
「ウン」
「いいねえ、このお二人」
「いやァん」
「これから千駄ヶ谷です」
「これはまた率直ですな」
「寒いからおでん食べてエンジン温めてるんです。ぬかず三発ですよ。でもないか」
「ドテ焼ってなァに?」
「ドテ焼、ドテ焼」
「牛の筋をコマ切れにして串にさして味噌でコトコト煮るんですよ。名古屋は赤味噌でやる。大阪では白味噌でやります。トロトロしながらコリコリしてうまいですよ。パリの中央市場|界隈《かいわい》にもない味だなあ、あれは」
「今夜はアベックが多い」
「土曜の夜だからな」
「いや。雨上りだからでしょ」
「コンニャク」
「食べるなァ、君は」
「好きなんだもン。だけど、東京のコンニャクってみんなこう白いのね。田舎のはもっと黒くってブリブリしていたと思うんだけど、こちらへ来てから、そんなの食べたことないわ」
「九十八パーセントまで水だといいますね」
「まァ、ひどい」
「ハンペン」
「はいはい」
「ねぇ、おじさんよ、このあたりの森にはずいぶん変なのがいるんじゃないのかね」
「そうでございます。いわゆる覗きが多いようですね。四十歳、五十歳の立派な身なりをした紳士の方がアベックを覗いて歩いていらっしゃるようでございますね。このところぐっとまたふえたようですよ」
「いやだァ」
「お前さんのことじゃないよ」
「ここ二、三年、毎年ふえているようでございますね。自家用車でのりつけたりなどして、ほんとに立派な身なりをした紳士なんですよ。これが、こう……」
「皇居前広場はどう?」
「よく知りませんが、しかし、あのあたりのおでん屋はボリますよ。これだけは御注意しておきます。一回きりのお客さんなもんだから足もと見るんですね」
「つみれ」
「はいはい」
「お酒」
「はいはい」
「さァ、いくか」
「いよいよやるですか」
「ええ、もう、ね」
「バカ、もう酔ってる」
「おじさん、お愛想《あいそ》」
「はいはい。ここまできて喧嘩することないでしょう」
「知らないッ。さきいくわよ」
「早いね、もういくの」
「バカ」
「さよなら」
「サヨナラッ」
「お気をおつけになって」
「あてられたなあ」
「ゴボウ巻き」
「はいはい」
新宿歌舞伎町で。
吹きさらしのおでん屋台。
「バカもんッ!」
「はげしいね、この人」
「ノーテンファイラッ!」
「ノーテンは脳天と書く。ファイラは壊了と書く。頭がこわれたというんだ。頭がこわれたとおっしゃるのだ。ホーリーチンツァイライ?」
「ノーテンファイラッ!」
「またいってやがる。バカもん。ファントイメイティコツイ」
「おれは戦争中、予科練でパイロットでガーッとやってた」
「予科練でガーッと。なにをガーッだ。赤トンボか、ゼロ戦か」
「バカもんッ! こう見えてもおれは戦争中にブン屋でガーッとやってたのだ」
「いそがしいね、この人。予科練でガーッ、ブン屋でガーッ。どだい、いそがしいよ」
「貴様ッ、やるかッ!?」
「なにをよ」
「キンタマしめてこいッ!」
「しめなくても小さいや」
「小さかったら大きくするッ」
「いいよ、いいよ。大艦巨砲主義はもう二度とごめんよ」
「貴様ごとき若僧になにがわかる。混濁の世に我一人というのだ。世は一局の碁なりけりというのだ。ベキラのフーチに波騒ぎというのだ。知らんだろう、バカもんッ」
「今度はミカミタカシだ」
「ミカミじゃないッ!」
「ドイバンスイをミカミタカシがもじって昭和維新の歌というのをつくったのだ。知らんのか、バカもんッ! おれは相対的読書人ですよ。なんでも知ってる。なんでも知ってるがなにもできんです」
「ノーテンファイラッ!」
「そう、そう」
「ちょっと、ちょっと。今晩は冷えるじゃない。あなたそんな恰好で、何時頃までここにいるの、毎晩」
「そうねえ、朝の三時頃かなァ。四時頃になることもあるしねぇ。きまってないけどね」
「冷えるじゃない?」
「そうなの、そりゃァ、冷えるの。でもねぇ、バーやキャバレーに勤めたらさ、やれお化粧代だ、やれドレス代だとかさ、いろいろかかるでしょ。差引勘定したらいくらも残らないでしょ。だからねぇ、それならいっそこれのほうがいいかと思ってね、やってるんだけど」
「わかるわ」
「わかるわよ、ほんとに」
「タネやダシはどうするの、自分で毎日つくってるの?」
「ううン、こりゃあね、一カ所でつくってるところがあってね、そこから買ってくるの」
「配給だね、つまり」
「つまりそういうことね。バケツで買いにいくの」
「バケツでぇ?」
「そうよ。でもそれ専用のなんだから、きれいだわよ。よく洗ってあるし」
「おれは戦争中、予科練でガーッとやってたんだ。ヨドゴの出身でよ、おれ」
「ヨドゴってなんだ?」
「知らねいな、田舎者め。淀橋第五小学校ってぇのだ。ブン屋でガーッとやってたのだ。バカもんッ!」
「まだいってやがる」
「寒い、寒い」
「ほんとねぇ、冷えるわァ」
「イカくれ」
「はい」
「お酒よ」
「はい」
「あら、本を読んでるのね。坪田譲治、『子供の四季』。へえッ。あんた、これ読んでるの?」
「読んでるわよ」
「おもしろいの、この本」
「べつにどうってことないんだけどさ。ひまだからね。だからまあ本でもってとこね」
「文庫本なのね」
「安かったのよ、だから買ってきた。古本屋でね、二十エンなのよ」
「お愛想して」
「はい。千二百エンですね」
「おめいらは知らねえだろうがおれは戦争中、パイロットでよ。ガーッとやってたんだぞ。おめいら、ソーシァル・キャピタリズムって知ってっか?」
「横文字に弱いの」
「あら、あのお客さんと一緒じゃなかったの?」
「一緒じゃないわよ」
「あら、どうしよう。百六十エンのところを千二百エンももらっちゃった。みんな一緒だと思ってたのよ。追っかけてこよう。ちょっとお客さん、わるいけど番しててね。たのみますうッ……」
「食べちまうわヨ」
「いっちゃったわヨ」
「あら、バカもんも消えた」
「冷えるう」
「今夜は冷えるう」
石焼イモの屋台。
「おじさん、イモおくれ」
「はい。どんなところにしましょう。大ぶりなのか、小ぶりなのか」
「中ぶりでいいよ。よくこんな時間に客があるね」
「結構いらっしゃいますよ。バーの女給さんなんかが新宿あたりから帰ってくる途中でお買いになるんです」
「一人になると、イモを食べるのか」
「お客さんと二人の方もいらっしゃいますよ」
「さしむかいで食べるんだな」
「そうなんでしょう」
「寝床に二人で入ってさしむかいでイモを食べるんだな」
「そうなんでしょうね」
「熱いねといったり、フフフフと笑ったりしてるんだろうね。ほら、手がこんなに熱くなったといって頬っぺたにあてっこしたりするんだろうな」
「こまかいですね、お客さん」
「それが商売なんだ」
「へえ……」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
○
小さな灯から人びとの声は生れて、凍《い》てついた暗い未明の空へ細い煙のようにもつれあいつつのぼっていくのである。