この不景気に、バーキンが売れに売れているという記事を見つけた。
何でも予約待ちということで、注文するまでに四、五年かかる。その合い間に女性たちは食べるもんも食べないで、節約するんだそうだ。
ちょっとぉ、エルメスのバーキンといったら七十万円はするんじゃないの。ちょっとした国産車の値段である。国産車をぶら下げるには、若い女のコの腕はあまりに細すぎる。あれはやっぱり、がっしりと脂肪のついた中年女性のものだ、と言ったとしてもおそらくわかってはくれまい。
欲しいものは欲しい、どんなことをしたって欲しい、と人の心をかき乱すのがブランド品の持つ魔力である。誰しも経験のあることだろうが、海外のブランド品店へ行くと鼓動の速くなっていくのがわかる。
「こんなに買い物していいのか……」
ドキドキ、ドキ……。
「カードが落ちる時、どうやって払えばいいんだ」
ドキドキ、ドキ……。
「でもどうにかなる。どうにかなる。きっとどうにかなる」
心臓は高鳴り、手は震える。あの興奮状態をどういったらいいのであろうか。友人が証言するには、私は商品を手にしたままぴくりとも動かず、目はうつろになり、何ごとかつぶやいているそうだ。すごくおっかないとも言われた。
こうして買ったケリーやバーキンが、家のクローゼットの中に、というよりも部屋のそこらへんに何個かある。何回かお話ししたかもしれないけれど、私はかなりのエルメス持ちざんす。が、使うことはめったにない。なぜならエルメスのバッグというのは、実はかなり持ちづらいものだ。ケリーはいちいち留め金をとめるのが面倒くさいし、開けっ放しにしていると、必ずといっていいぐらい通りすがりの人に「あぶないですよ」と注意される。バーキンにいたっては、重たいし、カサ高いこと腹立たしいぐらいだ。私の友人にパーティでも、オペラ観に行くのにも、いつもバーキンをぶら下げてくる女がいる。どうして小さいバッグに替えないのかと尋ねたところ、
「めんどくさいし、詰め替えると忘れ物するんだもん」
という答えが返ってきた。私もそうであるが、バーキンを使うとかなり不精ったれになってくる。かなりの量が入るので、いっさい合さい入れて、いつのまにか同じバーキンばかり使うようになってくるのだ。
話は変わるが、茶色が大流行した二年前、どうしてもベージュのバーキンが欲しくてパリの本店で買った。帰国してすぐのことだ。お客が来ている間、猫を部屋に閉じこめておいたところ、仕返しにオシッコをされた。しかも敵は、わざわざいちばん新しく、いちばん高価なバッグを狙ったようなのだ。オシッコの跡は、日本のデパートを通じてパリで磨いてもらったが消えることはない。今でもマダラになって残っている。ネコのオシッコ模様のバーキンを持っているのは、日本広しといえども私ぐらいかもしれない。
ところでエルメスには、バーキンよりももっと重たい、使いづらいバッグが存在している。それは言わずと知れたオータクロアですね。今から十五年前のこと、ファッション雑誌のグラビア取材で、私はパリを訪ねた。そして、当時ローンを抱えていなかった私は、エルメス本店でバッグを三個買うという暴挙に出た。一個は白のケリーで、これは夏に着物を着る時に時々使っている。もうひとつは臙脂《えんじ》の大ぶりのケリー。これはもう早くも型くずれしてほぼ引退状態。そしてもう一個、真っ赤なオータクロアを買ったのである。よく芸能人が、機内用にこのオータクロアを持っているのをグラビアで見かけるが、どうしてあれほど力持ちなのか驚いてしまう。頑強な私をもってしても、中身を入れたオータクロアを持ち上げるのは至難の業《わざ》だった。
「よっこらしょ」
とかけ声をかけて持つが、厚い丈夫な革のオータクロア+バッグの中身の重さといったら、もう手がちぎれそう。私は本気で底に滑車をつけようと思ったぐらいだ。私はそのオータクロアを持て余し、なんと「アンアン」の誌上バザールに破格の値段で出した。あの時は「なんと太っ腹」とまわりにびっくりされたものだ。応募者が多い時は抽選で、ということであったが、
「ズルをしてくれないか」
という知り合いの電話が何本もかかってきたものである。
今数々の思い出を胸に秘めて、私のケリーやバーキンは静かに眠っている。だらしない私のことだから、クローゼットや袋には入らず、仕事場のあちこちに置かれている。今、私の好きな洋服に、これらのバッグはちょっと重過ぎる。それよりも軽快なプラダやドルガバの方が似合うような気がする。お出かけの時は光りもんのフェラガモがある。
しかしエルメスのバーキンを買った日のこと、買った場所のことははっきりと憶《おぼ》えている。スペインのあの店、当時円高のおかげで二十三万で買ったケリー、ロスの店で見つけたバーキンの新作……。他のバッグとのめぐり会いはすぐに忘れてしまうのに、やはりエルメスは違う。ずうっとずうっと、あの緊張感さえ記憶にある。みんなこの一生の出会いが欲しいんだ。