「アンアン」がめでたく三十周年を迎えるそうである。本当にめでたい。
ひと口に三十年といっても、ずうーっと日本の女のコたちをリードする人気の雑誌でいられたということはスゴいことである。
三十年前、私が何をしていたかというとですね、言いたくないけど田舎の中三か高一かしらん。ファッションとか流行とかいうものとは全く無縁の生活をおくっていた。あの頃は女のコの着るものなんかあんまり売っていなかったし、外出するのは制服という時代である。けれども私と「アンアン」との絆《きずな》は、その頃からちゃんと結ばれていたのだ。
「『アンアン』創刊記念・キャッチフレーズ募集」というのに応募したところ、選外ではあったがタオル地のポーチが送られてきたのである。茶色のタオル地のとてもステキなポーチだ。ところが今、マガジンハウスの古い社員の方に聞いても、
「そんなものは見たことがない」
という。が、私は確かに手にしていたのである。
それからいろんなことがあったわ。大学生の時はトラッド全盛期で、私は典型的な女子大生ルック。なんと髪を巻いて、セリーヌのスカーフにチェーンを垂らしていた。当然「アンアン」のとがったファッションとは無縁になる。
それが再び近づいたのは、コピーライターになった時である。私がとてもダサい格好(これももう死語かしらん)をしているというので、
「これでも読んで勉強しろ!」
と投げつけられたのが「アンアン」であった。
が、グラビアを見たってちんぷんかんぷん。とにかく私とはまるっきり遠い世界の話という感じであったが、少しでも近づくように努力しました。そうなると気持ちはフクザツになっていくから、人間ってイヤね。
カッコいいスタイリストとかモデルの人たちがやたら出てくるとさ、
「ふん、有名人ぶっちゃってイヤな女たち。男と遊んでそうで、キライよ、こんな人たち」
なんて思ってたっけ。
今もそうだけど、マガジンハウスの人たちっていうのはとにかく私生活でも決まってて、飲みに行っても遠くからわかる。
「ここは『ブルータス』編集部の連中が飲みにくる」
「『アンアン』の人たちが食事するところ」
などということを売り物にしているところも多かった。
そういうのを見ると、「フン!」「フン!」「フン!」の連続よ。劣等感にこりかたまって、ひがみっぽい女って本当にイヤね。
「なんかさー、ヘンな黒い服ばっか着ちゃってどこがおしゃれなのよ」
と毒づいてたわ。
そんな私がある日、知り合いをとおして取材の依頼を受けた。
「コピーライターってどんな仕事? っていうテーマで出てくれない」
そりゃー、嬉《うれ》しかった。どういうものを着たらいいんだろうかって三日ぐらい悩んだもんだ。その頃の私は、ちょっとカン違いしているテクノファッションといったらいいだろうか。髪はツンツン、フィオルッチの銀色のジャンパーといういでたちだった。
はっきり言って、田舎っぽいダサさから、東京のギョーカイ人のダサさへと移行していたのだ。
しかしこんな私でも「アンアン」の人たちは何かと親切にしてくれ、次々と取材がくるようになった。まあ私も処女作を出版して、多少有名人になっていた、ということもある。
そして、運命の日がやってきた。ある日、一本の電話。
「もしもし、今度さ、あなたのとこへ行く編集者は、マガジンハウスいちのハンサムなのよ。一度見ておいて損はないわよ」
背が高く、顔が濃い若い編集者がやってきた。彼は中途入社だったので、まだ二年めぐらいだったろうか。
南青山にあった私の仕事場に来て、ついでだから根津美術館の庭に遊びにいった。途中、肉屋の前を通った。
「ね、ね、ここのハムカツ、すっごくおいしいんだよ」
私が言うと、
「そうですか」
若い男はぶっきら棒に言った。
私はそこでハムカツとコロッケを買い、私の仕事場で一緒に食べた。とてもおとなしく感じのよい人だと思った私の目は、ふし穴だった。
今から十五年前のことである。その若い男は四十男となり「アンアン」の編集長になった。テツオである。
あれから十五年たつ。私の歴史は、ちょうど「アンアン」の歴史の半分だ。
私の出場回数は、女性部門ではなんとあのキョンキョンを抜いて第1位というではないか。「アンアン」のミューズ・キャラクターともいえるキョンキョンをしのぐとは、なんとスゴいことであろうか。
オバさんになっても、「アンアン」に出て違和感のない女でありたいと願う私。
今週は三十周年にちなんで、格調高く感動的にしました。