六 遠野郷にては豪農のことを今でも長者といふ。青笹村大字糠《*ぬかの》前《まへ》の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某といふ猟師、ある日山に入りて一人の女に遭《あ》ふ。恐ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何をぢではないか、ぶつなといふ。驚きてよく見ればかの長者がまな娘なり。何ゆゑにこんな処にはゐるぞと問へば、ある物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫《をつと》が食ひ尽くして一人かくのごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾《と》く帰れといふままに、その在所をも問ひ明らめずして逃げ帰れりといふ。(注 糠前は糠の森の前にある村なり。糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり)