二九 鶏《けい》頭《とう》山《ざん》は早池峰の前面に立てる峻峰なり。麓の里にてはまた前《まへ》薬《やく》師《し》ともいふ。天《てん》狗《ぐ》住めりとて、早池峰に登る者もけつしてこの山は掛けず。山口のハネトといふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きはめて無法者にて、鉞《まさかり》にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞ひのみ多かりし人なり。ある時人と賭けをして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり。その岩の上に大男三人ゐたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気《け》色《しき》ばみて振り返る、その眼の光きはめて恐ろし。早池峰に登りたるが途に迷ひて来たるなりと言へば、しからば送りてやるべしとて先に立ち、麓近き処まで来たり、眼を塞げと言ふままに、暫時そこに立ちてをる間に、たちまち異人は見えずなりたりといふ。