七五 離《はなれ》森《もり》の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸《マツチ》の軸木の工場ありたり。その小屋の戸口に夜になれば女の伺ひ寄りて人を見てげたげたと笑ふ者ありて、淋しさに堪へざるゆゑ、つひに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木伐出しのために小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者いづれへか迷ひ行き、帰りて後茫然としてあることしばしばなり。かかる人夫四、五人もありてその後も絶えず何方へか出でて行くことありき。この者どもが後に言ふを聞けば、女が来てどこへか連れ出すなり。帰りて後は二日も三日も物を覚えずといへり。