七九 この長蔵の父をもまた長蔵といふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来たり、門《かど》の口より入りしに、洞《ほら》前《まへ》に立てる人影あり。懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず。妻は名をおつねといへり。おつねの所へ来たるヨバヒトではないかと思ひ、つかつかと近よりしに、裏の方へは逃げずして、かへつて右手の玄関の方へ寄るゆゑ、人をばかにするなと腹立たしくなりて、なほ進みたるに、懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入りたり。されど長蔵はなほ不思議とも思はず、その戸の隙に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉してあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲《*くも》壁《かべ》にひたと付きてわれを見下すごとく、その首は低く垂れてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるやうに思はれたりといふ。この時はただ恐ろしかりしのみにて、何事の前兆にてもあらざりき。(注 雲壁はなげしの外側の壁なり)