八二 これは田尻丸吉といふ人がみづから遭ひたることなり。少年の頃ある夜常《じやう》居《ゐ》より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽《かす》かに茫としてはあれど、衣類の縞《しま》も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれど、そこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当たり、戸のさんにも触りたり。されどわが手は見えずして、その上に影のやうに重なりて人の形あり。その顔の所へ手をやればまた手の上に顔見ゆ。常居に帰りて人々に話し、行《あん》燈《どん》を持ち行きて見たれば、すでに何物もあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧なる人なり。また虚言をなす人にもあらず。