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ムッソリーニの処刑03

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:反ファシズムの伝統 イタリア国民の多くは、なにも九月八日の休戦発表から手のひらを返すように「反ナチ・ファシスト」に変った
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反ファシズムの伝統
 
 イタリア国民の多くは、なにも九月八日の休戦発表から手のひらを返すように「反ナチ・ファシスト」に変ったわけではない。「反ファシズム」精神は、実はムッソリーニの政権樹立以来、脈々と生き続けてきたのである。
一九一九年、第一次大戦終了後、連合国の一員として戦勝に大きく貢献したもののヴェルサイユ平和条約でのイタリアへの処遇は冷たかった。領土割譲もイタリアには不満であった。しかも戦争で経済力も極端に疲弊しており、失業者があふれていた。前線から帰国した将校二十万はもちろん、兵士達も職に就くことは困難であった。
ムッソリーニはそうした失業者らを集めて、ファシスト党を結成した。古代ローマの栄光を求めて、力強いイタリアの建設を目指したのである。当時の国内情勢は、戦後の危機的な経済と、それに伴う労働者側のスト行使で政情不安も招き、ソ連に続く革命前夜をさえ思わせる空気であった。ムッソリーニは党の「突撃隊」「戦闘ファッショ」などの武装組織により、左翼勢力を暴力で弾圧した。資本家側はムッソリーニに資金援助して激励した。
本来は社会主義者を目指したムッソリーニではあったが、そこに国家主義的要素が加わって、思わぬ方向へと転換して行く。彼の暴力的な「突撃隊」や「戦闘ファッショ」は、棍棒はまだしも、放火さらには拳銃、手投弾などで左翼分子に躍りかかっては多数の死傷者を出していた。
国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世は、国情不安で騒然とした一九二二年十月、ムッソリーニに政権をゆだねるのだが、その時すでに前途に不安を抱く国民が数多くいたのである。ムッソリーニはそれ以前、社会党機関紙「アヴァンティ!(前進!)」や、自らの「イル・ジォルナーレ・デル・ポポロ(国民新聞)」などの編集長を務めたジャーナリストであった。鋭敏な感性、洞察力には定評があった。特に人を魅了する修辞手法は、誰もが雄弁家と賛えた。人の心を衝く片言隻語を吐く演説は、聴く人を酔わせた。これらは見方を変えれば、抜け目なく、機を見るのが敏でかつ煽動家ということにもなる。事実、そう見て警戒する人々も多かった。
政権掌握後わずか二年足らずの一九二四年四月、ファシスト党に有利に制定した新選挙法による総選挙で、同党は圧倒的第一党となり、一党独裁体制の基礎を固めた。近代国家において、選挙法が改定される時は、きまって提案する党に有利に運ぶような改定がなされる好例であった。
ファシスト党はさらに一九二六年、「国家防衛法」を制定し、ファシスト党以外の全政党を解散し、秘密警察OVRA(反ファシスト分子予防検束機関)創設により、警察国家へと移行して行く。このOVRAは戦前の日本の「特高」(特別高等警察)と同じで、反政府的思想犯の取締り、弾圧を専門とする。こうして当初は政治的基盤の弱かったファシスト党も、新選挙法と国家防衛法の二つで、独裁政権としての強固な立場を確立することになった。
またOVRAによって、反ファシスト分子は政治犯の名の下に、ポンツァ、リパリ、ランペドゥーサなど六つの孤島に流刑にされた。この法施行の年だけで、約五百人が島流しにされた。さらにその翌年だけに限っても、反ファシストとして検束された者は、一万九千人にも達したのであった。
 以上のようなファシスト独裁体制が確立される過程で、激しい弾圧にもくじけず、その後イタリアに反ファシズム精神を育んでいく人物も数多く現われた。その代表的な人物を幾人か挙げておく。社会党代議士ジァコモ・マッテオッティ、パリに亡命中に暗殺されたロッセッリ兄弟、それに思想家アントニオ・グラムシらである。彼らはそのカリスマ性で生涯ムッソリーニを脅かし続けたのであった。
マッテオッティは北イタリアの大地主の息子ではあるが、小作人の生活実態をつぶさに知って社会党代議士になった知識人であった。ムッソリーニの政治手法に早くから警告を鳴らし、一九二四年四月の総選挙後の五月三十日、下院で「今回の総選挙では、選挙民の自由な意思が表明されてはいない」と、ファシスト党の違法ぶりを激しく攻撃した。
ファシスト党議員も総立ちで野次を飛ばし、マッテオッティの演説はしばしば聞き取れぬほどであった。これにはムッソリーニまでが加わり、「君は背中に弾丸をみまわれたいのか! そうしてやる勇気は持っているぞ」と怒鳴る一幕さえあった。
三十九歳の若き政治家マッテオッティはこの日、下院を去る時に同僚に「君らは僕の葬儀の弔辞を用意しておいてくれ」と言い残した。果して十日後の六月十日、彼はローマのポポロ広場近くの自宅から下院に向う途中、テヴェレ川畔で何者かに誘拐され、行方不明になったのである。
幸い誘拐した車のナンバープレートを目撃した近くの人物から、犯行一味が割り出された。車の所有者はムッソリーニの友人のさる新聞編集長で、実行犯は殺人・誘拐前科十二犯のファシスト突撃隊員アメリゴ・ドゥミーニほか二人であった。ドゥミーニらの自白でマッテオッティの遺体も発見された。
事件の前後の状況からして、マッテオッティ殺害がムッソリーニの差金(さしがね)によることはほぼ明らかであった。彼は窮地に陥った。失脚さえ噂された。だがムッソリーニは下院で反撃に転じる。顔面蒼白になりながら、「われわれを脅かそうとするものこそ、われわれの唯一の敵である」と絶叫し、ファシスト党攻撃の口を封じた。こうして辛うじて危機を乗り切ったのだが、ムッソリーニもマッテオッティの“返り血”を浴びた。マッテオッティ殺害はムッソリーニの生涯消えることのない「悪」の烙印となったのである。
カルロ、ネッロのロッセッリ兄弟の運命も今日なお語り継がれている。フィレンツェの名門出身のこの兄弟は自由主義者であった。一九二七年に逮捕、リパリ島に流刑された。だが彼らは本土の友人と密かに連絡をとり、月のない夜モーターボートによる救出作戦の末、奇跡的にチュニジアに脱出し、パリに亡命する。そこでロッセッリ兄弟は『脱出記』を本にまとめ、ファシスト政治を糾弾したのである。
そればかりか、祖国イタリア向けに反ファシズムのニュースレターを送り続け、抵抗組織「正義と自由」運動を創設する。スペイン市民戦争(一九三六—三九年)では、当時パリにいた反ファシストのイタリア人や本土からの同志を集め、共和派支援の国際義勇軍を編成し、自らも陣頭に立った。その部隊名は「ガリバルディ旅団」であった。
ムッソリーニはこれに対抗して「ムッソリーニ旅団」をファシスト・フランコ軍支援のために派遣した。スペインの地で早くもファシストと反ファシストのイタリア人同士の戦いが行われたのであった。このガリバルディ旅団の戦士達が、後にイタリアでパルティザンのリーダー格となったのは歴史上、当然の帰結といえよう。
しかし一九三七年六月、ロッセッリ兄弟はスペインに武器輸送中、南フランスの片田舎で暗殺された。手を下したのはフランスの極右組織であったが、ローマのファシスト情報機関の指示によるものとされた。パリでの兄弟の葬儀の日、全ヨーロッパから参集した反ナチ・ファシストを含め約二十万の人々が二人の棺に別れを告げたとの記録がある。
グラムシはその著『獄中ノート』『獄中からの手紙』などにより、現在もなおすぐれた思想家としての声価は高い。ムッソリーニによって投獄の憂目に遭い、これら著作が生れたことは大きな皮肉である。
彼は一九二一年、社会党から分派してイタリア共産党を創設した。名前こそ共産党だが実態は今日でいう社会民主政党に近かった。マッテオッティと同じくムッソリーニにとって政敵の一人であった。マッテオッティ事件後、国家防衛法が制定されると、一九二六年、国会議員でありながら危険人物として真っ先に逮捕され、二十年の懲役刑を宣告された。
身障者であるうえ、結核におかされていた彼にとって、二十年四ヵ月の獄中生活は少しずつ体を切り刻まれる残酷な死刑執行にも等しかった。グラムシの明晰な頭脳がムッソリーニには耐え難かったのである。当時、検察官は「この人物の頭脳を二十年間、働かせないことが必要である」と論告したものである。
このためロマン・ロランはじめヨーロッパの知識人、文化人ら多数が、グラムシの減刑運動を展開したほどであったが、結核は彼の体を徐々にむしばみ、一九三七年に獄中で四十五歳で死去した。
 イタリアの反ファシスト運動はこのように、ムッソリーニのファシスト党結成後から生れていたが、独裁確立後の弾圧に次ぐ弾圧で、第二次大戦開始の頃にはほとんど息絶えたかに見えた。しかし一九四二年に入って戦局が芳しくなくなるにつれて、徐々にではあるが動き出していた。連合軍による空襲激化で、民心も政府から離反しはじめ、厭戦気分が広がってきたからである。とはいえ、小人数の活動では、実質的な力とはならなかった。
だが一九四三年九月以降、パルティザンが誕生し、部隊が編成されると、スペインでの「ガリバルディ旅団」のほか「マッテオッティ旅団」「正義と自由旅団」「グラムシ旅団」と、これら反ファシスト達の名が冠せられた。これを見てもイタリア人の心の底に、反ファシズム精神が脈々と生き続けていたことが分る。そしてそれはドイツのイタリア占領によって、「反ナチ」闘争としても一挙に燃え上がったのであった。
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