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ムッソリーニの処刑29

时间: 2019-11-21    进入日语论坛
核心提示:暗夜ミラノからコモへ ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の裏手にある大司教邸からモンフォルテ通りの県庁までは約一キロ。車で県庁に
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暗夜ミラノからコモへ
 
 ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の裏手にある大司教邸からモンフォルテ通りの県庁までは約一キロ。車で県庁に戻りながら、ムッソリーニは迷いに迷っていた。もはや降伏しかないことは明らかであった。事もあろうにドイツ軍が自分に無断で、連合国と和を講じようとしている事実は、あまりにも大きなショックであった。ドイツが矛(ほこ)を納めれば、ファシストは孤立して戦火の中に残される。何というドイツの仕打ち! 結局、降伏しか道はないと考えるが、無条件降伏とはいかにも口惜しい。やはりヴァルテッリーナで「最後の一戦」を交えてからにするか。しかし解放委員会は、連合軍が到着するまで捕虜にしておくとも言っていたではないか。だとすれば、連合軍に救われる可能性は大いにあるのでは——。とはいえ、戦わずして捕虜になるのは自分らしくもない。「名誉ある一戦」を戦ってからにするか。
ムッソリーニの胸は、揺れに揺れるばかりであった。
 県庁内の自分の政務室に入ると、妻ラケーレがあとを追ってきているとの連絡があった。ムッソリーニは「ここに来てはいけない。コモに近いモンテーロ荘というところに行け」と命じた。そこへ長男のヴィットリオが入って来た。「お前も帰れ。母を頼むぞ」と告げた。ヴィットリオの記録によると、その時の父は解放委員会幹部との会見について、顔一杯に怒りをあらわし、「あの連中は、余に無条件降伏を要求してきた。恥知らずめが」と怒鳴っていたという。
そのあとヴィットリオが「空軍司令官のボノミ将軍がブレッシァ近くのゲディ飛行場にエンジン三基の軍用機を用意している。これはスペインまで飛べると言っていた」と伝えると、ムッソリーニは何の関心も示さず、ただひと言「そんなことは考えていない」と亡命を冷くはねつける一幕もあったという(注1)。
この段階で彼は、少くとも国外脱出という策はとらないことを示していた。とすればヴァルテッリーナに立て籠ろうとしたのだろうか。それも実は決めかねていた。グラツィアーニらと協議して、ただ一つ決断したことは、ミラノ市内のファシスト軍を、解放委員会側に即時降伏させるということであった。「自分たちはどうするか?」については、ムッソリーニは何の指示も出さなかった。
ムッソリーニの生涯を眺める時、ここぞという肝心な時に、いつも素早い決断を下せずにいたのが目立つ。優柔不断というのではない。事態を見極めようとして、つい手間取るのである。その挙句、自分の楽観的な見方に身をゆだね、時や運命に支配されてしまうことが多かった。自ら血路を切り開くとか、死中に活を求めるという果敢さはない。難局に直面して、どうにかその場を切り抜ける適応型である。断固、中央突破型ではなかった。
ムッソリーニはすぐに、知事のバッシを大司教邸に派遣し、とりあえずミラノのファシスト軍の降伏を解放委員会に通告させた。そのうえで自分らはどうするかを考慮しようとしていた。
 バッシは大司教邸で、この日の一斉蜂起で自分がミラノ県知事を解任されたことを解放委員会幹部から知らされた。後任にはパルティザンの一人が任命されたとのことであった。バッシがその件を聞かされている最中、大司教邸の大広間に、集会に出ていて小一時間遅れたペルティーニらが入ってきた。ムッソリーニらとの会談の次第を聞いたペルティーニは大声で言った(注2)。
「降伏してきたら裁判だ。即刻、裁きたい」
一斉蜂起の大集会をリードしてきて興奮のさめやらぬペルティーニは、それでなくとも一本気の人物ゆえ、同僚の前で胸のうちを明かしたのである。忠実なファシストのバッシは急ぎ戻るとこの件を統帥に報告した。
「よし、ならばコモの方へ……」
この時になって初めて、ムッソリーニは自らの決心がついた。パルティザン側の本心が即刻裁くことにあるならば、ヴァルテッリーナの一戦も無駄となる。いまやスイスに脱出するしかないと判断したのだ。
このことは四十年後の一九八五年夏に明らかにされた。イタリアの現代史研究者フランコ・バンディーニの調査結果による。これはイギリス側調査資料に基づくもので、チャーチルの命令でイギリス外交官サー・ノエル・ヒューズ・ハーブロック・チャールズが調査した当時のデータであった(第二部第九章「誰が処刑を命じた?」の項で詳述)。
それまでは、ムッソリーニはヴァルテッリーナで「名誉ある戦い」を戦うつもりではなかったかという説が強かったが、この調査資料の発掘によって「スイス脱出」説が一挙に有力になった。ヴァルテッリーナに行くのにどうしてコモ方面を目指したのかという謎も、この資料によって解けた。もしどうしてもヴァルテッリーナに入るつもりならば、コモではなく反対側のレッコを通るべきだったのである。こうしてヴァルテッリーナでの「最後の一戦」説はあやうくムッソリーニ神話になるところであった。
 ミラノ脱出に当り、ムッソリーニは重要書類入りの鞄を持ち、肩から自動小銃をかけた。ファシスト党首脳、閣僚らも「信頼する統帥について行く」と、自動車を用意した。二十数台の車の隊列が県庁の中庭を出た。ちょうど夜八時を回っていた。
取り残されて敗残部隊となったファシスト軍は、みるみるうちに自ら解体しつつあった。鉄帽や戦闘帽を道端に捨て、銃も放り出してそれぞれの郷里へと向っていた。パルティザンの報復やリンチを避けるため、背広に着換える者、なかには女性のオーバーを着る者、さらに神父のかっこうをして逃げる者もいた。かくてムッソリーニ政権はいまや、わずかにその二十数台の車でしかなくなった。
夜九時頃、一隊は無事コモの街に着いた。ここにはファシスト軍の一部が駐屯していた。一行はここでこれからの行動を打ち合わせしようとした。パヴォリーニは「やはりヴァルテッリーナに行こう。五千人の兵士を集められる」と提案した。これに国防相グラツィアーニが反論して言った。
「そんな幻想めいたことは言うな。まったく不可能だ。統帥をまどわすな!」
パヴォリーニはいきり立った。
「書記長に対して失礼な。人を侮辱するのも甚だしい!」
もはや寄せ集めの徒党に過ぎなくなった連中の内輪もめを眺めながら、ムッソリーニは一人になって、いつも使う色鉛筆で妻への手紙を書き出した。これが絶筆となる。
「愛するラケーレよ。余はいま、生涯の最終局面を迎えている。自分で書く本の最後のぺージになった。多分、われわれ二人はもう生きて再び会えないだろう。そこでこの手紙を書き、お前のところに送る。心ならずもお前に対してやってしまった間違った行為については、どうぞ許して欲しい。分っていると思うが、お前は余が心から愛した唯一人の女性だ。この最後の時に、余は神とわれわれのブルーノ(注・飛行機事故で死去した二男)の前にそれを誓う。知っているだろうが、余はヴァルテッリーナに行かなければならない。お前は子供達と、なんとかスイス国境にたどり着くように。スイスで新しい人生を全うするように。彼ら(注・スイス人)は通過を妨げないと信ずる。というのは、余はどのような時でも彼らを援助してきたし、お前達は政治とは無関係だからだ。もしうまくいかなかったら、連合軍に名乗り出ること。彼らは多分、イタリア人よりも寛大であろう。お前にアンナ(注・二女)とロマーノ(注・三男)、とりわけアンナのことを頼む。まだまだ面倒をみてやらなくてはならない。余がどんなに彼らに愛情を注いでいるか知っているだろう。ブルーノも天からお前を助けてくれるだろう。余はお前にくちづけする。お前と子供達とも一緒に抱き合いたい。お前のベニト
一九四五年四月二十五日
ファシスト紀元XXIII」(注3)。
 一枚の便箋にびっしり、太い青色で書かれ、赤色で署名と日付を書き入れた。この手紙は二十六日の夜遅く、ムッソリーニの使者からラケーレに届く。三年後に彼女はこれを公表する。
いずれにしても、この手紙を書いてムッソリーニは妻への訣別を告げた。ついに一人になった。ヨーロッパの天地にファシズムの響きを打ち鳴らした統帥は、いまや一人ぼっちになって、スイスへの脱出を計る哀れな男となっていた。ヴァルテッリーナへ行くということを書いてはいるが、それはその時のほんの気持の走りに過ぎなかったのではないか。妻にはスイスに出よと命じている。スイスでことによるといずれ合流できるのではという思いもひらめいたかも知れなかった。
 一方、大司教邸では解放委員会首脳がムッソリーニらの退出後、ドイツからも裏切られたファシズムの巨頭に同情を寄せながら、「無条件降伏」を持ってムッソリーニが戻るものと確信していた。そこへ前知事のバッシが「ファシスト軍団の降伏」を告げに来た。したがってムッソリーニが約束したように、八時過ぎには自らも含めた「全面降伏」を持ってくるものと、大きな期待を寄せていた。パルティザンの闘士達は、この日までファシストの手によって倒れた数多くの人々、血塗られた二十余年の歴史を想い、胸を熱くしていた。
時計の針は、しかしすでに九時近くなっていた。約束の「八時頃」は、とうに過ぎている。すぐに県庁のムッソリーニの政務室に電話してみた。
いつまでも鳴りっ放しのあと、やっと誰かが受話器の向うで言った。
「ここにはもう誰もいない。統帥は一時間ほど前、出発した。閣僚達と一緒に……」
解放委員会の面々は、思わず顔を見合わせた。
「やられた!」
舌を打ち、両手を広げて残念がったが、後の祭りであった。
ムッソリーニは、ノブレス・オブリージェ(高位にある者の義務)を裏切ったことになる。これで一挙に、解放委員会側のムッソリーニに対する心証は、同情から憎悪に変ってしまった。
「今度こそ、逃さんぞ!」
 ムッソリーニを生きて逃してはならないと考えていたのは、実はドイツ軍も同じであった。在イタリア・ナチ親衛隊司令官のヴォルフが一九七二年になって、次のように打ち明けている(注4)。
「カール・ハインツ(ムッソリーニのドイツ側暗号名)がもし逃亡しようとしたら、万難を排して殺害するように。ドイツ軍の手にあくまでも確保し、生きたまま連合軍に引き渡すようなことがあってはならない。これはヒットラー総統からの指令であった」
このため北上中のムッソリーニ一行には、ミラノからドイツ親衛隊員が護衛の名目で随行していた。ムッソリーニはそれを、安心材料として受けとめていた。その親衛隊員はガルニャーノ時代からの護衛兼監視であるオットー・キスナット少佐、フリッツ・ビルツェル中尉以下兵十人ほどであった。
イタリア人はあとからコモに追いかけてきて合流したものを含め、ファシスト政権の首脳、閣僚、それに党幹部らを合わせ、総勢三十数人がムッソリーニと行を共にしようとしていた。
その後をさらに、クラレッタ・ペタッチが弟のマルチェッロ一家と一緒に統帥に従う一心でガルダ湖畔から追っていた。
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