先日、ある月刊誌が私自身のことをルポ風に取りあげてくれた。私の周囲にも綿密な取材をし、分不相応なくらい立派な記事にして頂き、私は本当にうれしかった。何しろ十ページもある記事なんて初めてであり、ジャーナリストの多賀幹子さんが書かれただけあって、本当にいいのである。
この記事を読みながら、私は面白いことに気づいた。ジャーナリストがクールに私自身を見つめて下さったことで、私は自分でもまったく気づかなかったことを知らされた気がした。
私自身の「恋」についてである。多賀さんはこんな風に書かれている。
「ドラマの印象から、内館は恋愛についてはエキスパートのようだが、脚本家の井沢満は、内館は自分の恋愛には冷静だという。彼は内館からファックスを受けとったことがある。内容は恋愛相談。相手は〇〇で、経過はこう、結論として三つほど考えられると、箇条書きに整理してきちんと書き出してある。自分のことを実に客観的に理性的に観察している姿勢にすっかり感心したという。
仕事上のアドバイスを彼に求めることもある。仕事内容を説明し、どのように処したらよいのか、選択はA、B、Cの三つが考えられると、これまたきちんと箇条書きで並べてある。それぞれのメリットとデメリットについても詳しく添えてある。
�生きていくうえの運動神経が良い人です�
という言い方を井沢はする。
飲酒、異性、ギャンブルなどについて、極端にのめりこむことがない。バランスをとる舵取《かじと》りがうまい。決してぶきっちょではないのである。
しかも、井沢が付け加えるのに、
�人を見るとき偏見がなく、人生を楽しむプラス思考の人�
でもあるのだ。
もつれた恋のドラマを得意とする内館が、自分の恋には冷静に分析を施すというが……(後略)」
これを読み、私はうなった。この通りなのである。この通りなのに、この通りであることに私自身が気づかなかった。
言われてみれば、確かに私には「物ごとを選択する時の思考基準」というものがある。これは恋に限らず、すべての物ごとを考える時の基準である。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
㈰具体的な筋みちで考えること。
㈪野暮な方向は避けること。
㈫選択に迷ったら、とにかく積極的な方を選ぶこと。
[#ここで字下げ終わり]
またまた箇条書きになってしまったが、この三つはいつも気持の中にある。㈰と㈫は、大学時代にラグビー部のマネージャーをしていた時、監督から徹底的に叩《たた》きこまれた考え方である。武蔵野美大のラグビー部などは、六大学などから見れば赤ん坊のようなチームであるが、それでも私はマネージャーとして、常に選手がベストコンディションで戦える状態に持っていくことだけを、徹底して叩きこまれた。
美大という、一応はナイーブなアーティストの集まりであるため、精神的にデリケートな人も多い。彼らの精神と肉体のバランスをいつもさりげなく観察しながら、練習メニューを作り、試合を組む。たとえば強豪のA大学と練習試合をさせるのと、絶対に勝てるB大学とさせるのと、現時点ではどちらがチームにとってベターか。三六五日、そんなことばかり考えていた。
そういう時にはメリットとデメリットを頭の中で箇条書きにして、監督やコーチと話し合う。常に㈰と㈫の考え方で、チームにとってより有利な方を選択する。時にはあえて「後向き」の選択をすることもあるのだが、それも「今は少し後退した方が、むしろ積極的なのだ」という決断である。
私は自分でも気づかぬうちに、ラグビー部マネージャーの考え方が、人生の考え方に反映されていることに、改めて驚かされていた。その意味では私は全然ぶきっちょではなく、バランス感覚もある。
「野暮な方向は避ける」というのはマネージャーとは関係ないのだが、私自身の尺度として常に持っている。むろん、これは非常に難しく、野暮に走りっぱなしであるが、それでも「野暮は避ける」と心に誓っているか否かではかなり違っている。
たとえば映画「危険な情事」のヒロインなどは、私の尺度では野暮の骨頂である。不倫の相手に包丁をつきつけたり、妻にイヤがらせの電話をしたりするのは、何も本当の恋にのめりこんでいるからではなく、単に頭の悪い女なのである。パーに過ぎない。
いつだったか、私が恋愛エッセイの連載を持っている女性誌の読者から手紙が来たことがある。
「内館さんは、恋において野暮なことは避けたいと書いているが、それは間違っている。本当に男を愛したら、粋だの野暮だのという冷静な判断など出来なくなって当然です。それが男を愛するということです。内館さんは本当に男を愛することを知らないから、そういうことが言えるのだと思います」
これには苦笑した。
私は恋愛において、「理性がなくなること」イコール「愛の深さ」だとは全く思っていない。
「自分を失い、わけがわからなくならなければ本当の愛ではない」と思ったことは一度もない。自分を失わなくても、わけがわかっていても、深い愛は深い。相手の男だって、それは十分にわかるはずであり、わかる人を愛したいと思う。
「我を失う」という状態は確かに感動的であるが、やはり私自身は自分の精神をコントロールできる女に憧《あこが》れる。