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寝ながら学べる構造主義17

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:3 純粋なことばという不可能な夢[#「3 純粋なことばという不可能な夢」はゴシック体] 構造主義のさまざまな理説のうちで
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3 純粋なことばという不可能な夢[#「3 純粋なことばという不可能な夢」はゴシック体]
 構造主義のさまざまな理説のうちで、日本人の精神にもっとも深く根づき、よく「こなれた」のは他ならぬバルトの知見である、と私は思っています。
そこには理由があります。それはロラン・バルトが、日本文化を記号運用の「理想」と見なすという、とんでもない「偏見」の持ち主だったからです。
バルトにはある種の「こだわり」がありました。それは「空」や「間」への偏愛です。これらの概念はたしかに非ヨーロッパ的なものです。というのは、「空」は充填《じゆうてん》されねばならぬ不在であり、「間」は架橋されねばならぬ欠如であるとヨーロッパ的精神は考えるからです。しかし、宇宙をびっしり「意味」で充満させること、あらゆる事象に「根拠」や「理由」や「歴史」をあてがうこと、それはそれほどたいせつなことなのだろうか、むしろそれはヨーロッパ的精神の「症候」ではないのか、バルトはそう疑ったのです。空は「空として」機能しており、無意味には「意味を持たない」という責務があり、何かと何かのあいだには「超えられない距離」が保持されるべきだ……そういうふうな考え方は不可能なのだろうか、バルトはそう問いかけます。そして、その答えを日本文化の中に見つけた、と信じたのです。
バルトの文名を高めたのは『エクリチュールの零度』(一九五三)という書物ですが、その中でバルトが探求したのは、「語法の刻印を押された秩序へのいかなる隷従からも解放された白いエクリチュール」、何も主張せず、何も否定しない、ただそこに屹立する純粋なことばという不可能な夢でした。
[#1字下げ]「エクリチュールの零度(le degrezero de l'ecriture)とは直説法的エクリチュール、こう言ってよければモードを持たないエクリチュールのことである。ジャーナリストのエクリチュールと言ってもいいかも知れない。ただし、それはジャーナリズムが希求法や命令法(つまりはパセティックな語法)をもっては語らないという条件を満たした場合に限る。この新しいエクリチュールは絶叫と判決文の中間に位置し、どちらにも関与しない。まさにそういうものを欠いたエクリチュールなのだ。ただし、その欠如は完全である。そこには底意も秘密も何もない。非情なエクリチュールと言ってもいいかも知れない。だがむしろこれを無垢なエクリチュールと私は呼びたい。」(『エクリチュールの零度』)
 エクリチュールの零度、無垢なるエクリチュールとは、願望も禁止も命令も判断も、およそ語り手の主観の介入を完全に欠いた、「まっしろな」エクリチュールのことです。これこそバルトがその生涯を賭けて追い求めた言語の夢でした。
しかし「白いエクリチュール」ほど人を裏切るものはありません。バルトが理想とした「ジャーナリストのエクリチュール」、「ルポルタージュの語法」や「ドキュメンタリーの視線」がどれほど語り手の主観や欲望に汚されているか、私たちはすでに熟知しています。TVニュースの映像は「事実をありのままに映し出している」と信じるほどナイーヴな視聴者はもういません。同じ映像資料を使っていても、編集を変え、ナレーションを変え、音楽を変えれば、まったく違うメッセージを送ることができることを私たちはもう知っているからです。
バルトはアルベール・カミュの『異邦人』のエクリチュールを「理想的な文体」と絶賛しました。たしかに、この小説において、作者は主人公の行動や発言を高みから「説明」したり、「内面」に潜り込んだりすることをきびしく自制しています。その結果、そこには事実だけを淡々とかつ的確に記述する、乾いた、響きのよい文体が奇跡的に成立しました。『異邦人』のエクリチュールはたしかに「白いエクリチュール」のみごとな例でしょう。しかし、ひとたび人々がカミュのエクリチュールを「美文の模範」として押し戴いてしまうと、それもまた制度的語法となる他ありません。「カミュを真似て書く」作家たちが陸続と現れてしまえば、それはもう「白いエクリチュール」であり続けることはできないのです。
あらゆるエクリチュールはそれを選択した瞬間だけ「自由の幻影」をかいま見せ、次の瞬間にはもう硬直化し、その使用者に隷従を強いる装置に化してしまいます。ジャーナリズムもだめ、『異邦人』もだめ、シュールレアリスムもだめ、ヌーヴォーロマンもだめ……あらゆるエクリチュールの冒険に幻滅した果てに、バルトが出会ったのは何と「俳句」だったのです。芭蕉の一句を論じた一節にバルトはこう書きます。
[#1字下げ]「『すでに四時/私は九回起きた/月を愛でるために』(「こゝのたび起きても月の七つかな」)
注解者はこの句をこう解する。『月がたいへん美しいので、詩人は何度も起き出しては窓越しに月を眺めた』。暗号を解読し、型番を付け、同語を反復する。ヨーロッパにおける解釈の方法とはしょせんこの手のものである。それは意味を『貫き』、強引に意味を挿入するだけなのだ。(略)だからヨーロッパ的解釈は決して俳句そのものには手が届かない。というのも、俳句を読むという営みは、言語を欲情させることではなく、言語を中断することだからである。」(『表徴の帝国』)
 バルトは性的な比喩を用いて、ヨーロッパ的解釈の暴力性を際立たせようとしています。ヨーロッパの言語は対象を「欲情する」言語です。対象を裸にして、すべてを露出させ、意味で充満させることをそれはめざします。しかし、語義を十全に解き明かすというヨーロッパ的な解釈にこだわる限り、俳句の風雅に触れることはできないでしょう。むしろ俳句は解釈を自制するものの前にのみその真の美的価値を開示する、とバルトは考えます。
俳句の解釈は、禅僧が師から与えられる「公案」を解釈する作業に似ています。この課題の目的は公案に一義的な解釈をもたらすことではありません。ただひたすらそれを玩味し、「ついにそこから意味が剥落するまで、それを〈噛み〉続ける」ことが求められます。この「意味を与えて、解釈に決着をつける」ことへのきびしい抑制をバルトは「言語を中断させること」と表現しているのです。
[#1字下げ]「俳句においては、ことばを惜しむということが優先的に配慮される。これは私たちヨーロッパ人には考えも及ばぬことだ。それは単に簡潔に語るということではない。そうではなくて、逆に、意味の根源そのものに触れるということなのだ。俳句は短い形式に凝縮された豊かな思想ではない。おのれにふさわしい形式を一気に見出した短い出来事なのである。」(『表徴の帝国』)
 俳句に贈られた、いささか法外なこの賛嘆の言葉と、ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対してバルトが示した激しい嫌悪の当否について、ここでは論じるだけの紙数がありません。しかし、私たちの文化が「みごとに説明しきること」や「何ごとについても理非曲直を明らかにすること」より、「無根拠に耐えうること」や「どこにも着地できないで宙吊りになったままでいられること」を人間の成熟の指標と見なすという「民族誌的奇習」を保存していることは、バルトの言うとおり、たしかなことであるように思われます。それが果たしてバルトが夢見たような「無垢のエクリチュール」へ続く王道であるのかどうか、私にはよく分かりません。しかし、それについて考察し続けることは、私たち日本人読者に許された「特権的な義務」であると私は思います。
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