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寝ながら学べる構造主義26

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:3 大人になるということ[#「3 大人になるということ」はゴシック体] 鏡像段階の解説をするつもりで、いささかこむずかし
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3 大人になるということ[#「3 大人になるということ」はゴシック体]
 鏡像段階の解説をするつもりで、いささかこむずかしい話に踏み込んでしまいました。しかし、ラカンの言っていることは、ことばは複雑ですが、経験的には熟知されていることです。精神病院の救急病棟に長く勤務していた知人の精神科医によると、どれほどパニックになっている急患であっても必ず医師に向かって何かを「語ろうとする」し、そのことばだけがとりあえず治療の唯一の手がかりであると言います。患者の口にすることばを軸にして、医師と患者だけの「あいだでのみ」通用する特異な語法を作り上げ、それを使って、医師は患者が経験している内的世界を想像的に追体験します。一方、患者は妄想的な内的世界をことばにして表出することによって、閉じられた世界から脱出する道を見つけ出します。
他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の人間性の根本的条件です。精神疾患の治療とは、まさにこの人間の基本に問題をかかえる人々をコミュニケーションの回路の中にふたたび迎え入れることをめざしているのです。さて、私たちがすでにかなり踏み込んでしまったこの人間の「社会化」プロセスこそ、「エディプス」と呼ばれるものなのです。
「エディプス」とは、図式的に言えば、子どもが言語を使用するようになること、母親との癒着を父親によって断ち切られること、この二つを意味しています。これは「父性の威嚇的介入」の二つのかたちです。これをラカンは「父の否=父の名」(Non duperere / Nom duperere)という「語呂合わせ」で語ります。
何か鋭利な刃物のようなものを用いて、ぐちゃぐちゃ癒着したものに鮮やかな切れ目を入れてゆくこと、それが「父」の仕事です。ですから、「父」は子どもと母との癒着に「否」(Non) を告げ、(近親相姦を禁じ)、同時に子どもに対して、ものには「名」(Nom) があることを(あるいは「人間の世界には、名を持つものだけが存在し、名を持たぬものは存在しない」ということを)教え、言語記号と象徴の扱い方を教えるのです。
切れ目を入れること、名前をつけること。これはソシュールの説明で見たように、実は同じ一つの身ぶりです。アナログな世界にデジタルな切れ目を入れること、それは言語学的に言えば「記号による世界の分節」であり、人類学的に言えば「近親相姦の禁止」です。(「分節」articulation というのは訳語のむずかしい術語です。この語は「関節」「区切り」「断片」を意味します。動詞形 articuler は「断片化されたものを結びつける」という意味と、「はっきりと発音する」という意味があります。「断片」に「分かたれたもの」を結びつけることで、意味のある「ことばを語る」という一連の動作をこの語は一語で言い表しているわけです。)
ことばを学びつつある子どもは、いま学びつつある母国語がどのようなルールに基づいて世界を分節しているのかは分かりません。(レヴィ=ストロースが信憑や習慣について言ったのと同じです。私たちはどのような制度であれ、その「起源」には決して触れることができないのです。)
「羊」について「ムートン」という語だけを持つ言語共同体の中で育ったものと、「シープ/マトン」の二つの語を持つ言語共同体の中で育ったものでは、「羊」の見え方がはじめから違います。ことばを学ぶ子どもはそれを「まるごと」受け容れる他ありません。
子どもが育つプロセスは、ですから言語を習得するというだけでなく、「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け容れる他ない」という絶対的に受動的な位置に自分は「はじめから」置かれているという事実の承認をも意味しているのです。
子どもの成長にとって言語を使用するということは不可欠のことですが、それは同時に、この世界は「すでに」分節されており、自分は言語を用いる限り、それに従う他ない、という「世界に遅れて到着した」ことの自覚を刻み込まれることをも意味しています。
私たちは民話や都市伝説や小説や映画やマンガやTVドラマや、無数の物語を持ち、それを絶えず生産し消費していますが、ラカンが私たちに気づかせてくれることの一つは、それらの物語のうちの実に多くのものが「エディプス」的機能を果たしているということです。
ここでは童話を一つ取り上げて、その事実を確認してみたいと思います。取り上げるのは、『こぶとり爺さん』という童話です。
お話はよくご存知でしょうが、もう一度確認しておきましょう。
昔、二人のお爺さんが隣り合って暮らしていました。二人とも、頬に大きなこぶがありました。あるとき、一人のお爺さんが山で雨にあって木の洞《ほら》で雨宿りをしていると、鬼たちがやってきて宴会を始めます。はじめはこわごわ見ていたお爺さんですが、そのうちに調子に乗って、いっしょに舞うと、これが鬼たちに受けて、「明日も来い。これはカタにとっておく」と言ってこぶを取られてしまいます。この話を聞いた隣のお爺さんが翌日山に出かけて、同じようにひとふし舞ってみせたのですが、これは不評で、鬼に両方の頬にこぶをつけられてしまいました。おしまい。
こうやってあらすじを紹介すると、かなり「不条理」な物語です。
この物語に「教訓」があるとすれば、それは何でしょう。
「芸は身を助ける」ということでしょうか。
それはありえません。「よいお爺さん」が日ごろから踊りの稽古に余念がなく、「悪いお爺さん」がそれを冷笑していた、などという記述はどこにもないからです。(もしみなさんがお読みになったものにそのような「合理的説明」を施したものがあったら、それは間違いなく、リライトした作家による改作です。長く語り伝えられている説話はすべて本質的に「不条理」なお話です。そもそも「努力した人は報われる」というようなつまらない説話を、誰が好んで何世紀も語り伝えるものですか。)二人ともいずれ劣らぬお粗末な素人踊りを鬼の前で披露したにもかかわらず一方は報償を受け、一方は罰せられました。
あらためて考えると、実に不可解な話だと思いませんか。どちらも区別しがたいほどにへたくそな踊りをしたのに、一方は報償を受け、一方は罰せられるなんて。
実は、この物語の教訓は「この不条理な事実そのものをまるごと承認せよ」という命令のうちにこそあるのです。
この物語の要点は「差別化=差異化=分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは、理解を絶しているが、それをまるごと受け容れる他ない」と子どもたちに教えることにあります。
物語では鬼が実際に登場しますので、私たちはついその派手なヴィジュアルに気を取られて見落としがちですが、実はこの話は鬼は単なる機能であって、どんなかたちをしていても構わないのです。
「鬼」とは、ある差異化が行われた後になって、「〈誰か〉が差異化を実行したのだが、その差異化がどういう根拠で行われたのかは決して明かされない」という事実を図像的に表象したものです。つまり、「鬼」というのは存在する「もの」ではなく、「世界の分節は、〈私〉が到来する前にすでに終わっており、〈私〉はどういう理由で、どういう基準で、分節がなされたのかを遡及的に知ることができない」という人間の根源的な無能の「記号」なのです。
頬のこぶの「切断」というエピソードは、世界の言語的「分節」が、そのまま「去勢」(それは「父の否」が特に子どもに対して権力的に発動したときの暴力的な相を示すことばです)と同義であることを正しく示しています。
「爺さん」たちは「子ども」なのです。(外見に惑わされてはいけません。夢と同じように、物語においても、記号はつねに「それらしくない」かたちをとるのです。)
彼らの仕事は、この世には理解も共感も絶した「鬼」がいて、世界をあらかじめ差異化しているという「真理」を学習することです。それを学び知ったときはじめて、「子ども」はエディプスを通過して「大人」になるからです。
『こぶとり爺さん』の鬼がふるう権力と恐怖は、それが「どういう基準に基づいて差別化をしているのかが見えない」という点に支えられています。それは独裁者や暴君の権力と構造的によく似ています。
人々が独裁者を恐れるのは、彼が「権力を持っているから」ではありません。そうではなく、「権力をどのような基準で行使するのか予測できないから」なのです。廷臣たちのうち誰が次に寵《ちよう》を失って死刑になるか、それが誰にも予測できないときに権力者は真に畏怖されます。
これを「権力を持つものはどのような理不尽でも許される」というふうに合理的に説明しようとすると、話が見えなくなります。私たちはほとんどの場合、原因と結果を取り違えるからです。(これはニーチェのことばです。)正しくは、「理不尽な決定を下すものに人は畏《おそ》れを抱く」のです。(考えて見れば、当然です。どれほどの権力を持っていようと、権力の行使の仕方が合理的で明快なルールに則っていれば、その人は決して「暴君」とは呼ばれません。現代アメリカの大統領はおそらく歴史上最大の権力者ですが、「合理的で明快なルール」に則って権力を行使することを義務づけられているので、誰も彼を畏れません。)
逆に、私たちは他人に権力的な影響力を行使しようとするとき、必ず「理不尽」になります。(例えば、家庭では成員中で「もっとも理不尽にふるまうもの」がその家の権力者になります。非力な子どもだって、おとなしい妻だって、稼ぎのない亭主だって、理不尽でありさえすれば、たちまち他の家族から恐怖のまなざしでみつめられ、好き放題させてもらえます。)
そんなばかばかしい支配戦略が可能なのは、私たちの心が、根拠のない差別が自分に加えられたときには、その実行者を「抗《あらが》うことのできない強権の保持者」であると思い込むように構造化されているからです。
ヤクザの恐喝と刑事の取り調べはどちらもそのような人情の機微に通じているという点で、よく似ています。これはだいたい二人一組で行われ、一方が「怖い人」、一方が「話の分かる人」の役を引き受けます。「怖い人」が「こら、なめたらあかんど」と脅かし、「話の分かる人」が割って入って、「ま、そんな怒鳴るもんやないで。兄ちゃん、こわがっとるやないか」と助け船を出してくれます。そこでこちらは「話の分かる人」に「わらをもすがる」気持でとりなしを求めることになります。ところが、「話の分かる人」だったはずのその人が、こちらに十分すがりつかせておいたところで、突然凶悪な相貌に変じて、「こら、なに調子こいとるんや!」とどなりつけ出すのです。その瞬間に理性は「条理」に対する最後の頼りを失って、がたがたと崩れ去る……というのが「オトシ」の基本的な仕掛けです。
「私が無力無能である」という事実を味わったとき、反射的にその事態を、「私の外部にあって、私より強大なるものが私の十全な自己認識や自己実現を妨害している」という話型で説明する能力を身につけること、平たく言ってしまえば、「怖いもの」に屈服する能力を身につけること、それがエディプスというプロセスの教育的効果なのです。
そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼びます。「父」とは、そのようにして「私」の弱さをも含めて「私」をまるごと説明し、根拠づけてくれる神話的な機能の別名なのです。
ですから、この「父」という機能は、それこそどんなものでも担うことができるのです。現実の父親はもちろんですが、権力者も、悪魔も、ブルジョワジーも、共産主義者も、ユダヤ人も、フリーメーソンも、植民地主義者も、男権主義者も……およそ、「私」の自己実現と自己認識が「うまくゆかない」場合の「原因」に擬されるものはすべて「父」と呼ぶことが可能です。そして、「父」の干渉によって、「うまくゆかない」ことの説明を果たした気になれるような心理構造を刷り込まれることを、私たちの世界では「成熟」と呼んでいるのです。
『こぶとり爺さん』という童話はその意味で聖書の「カインとアベル」と同一の説話構造を有していることになります。聖書では、同じような供物《くもつ》を神に捧げたカインとアベルの二人の兄弟のうち、カインの貢ぎ物は主に拒まれ、アベルの供物だけ受け取られます。理由は不明。しかし、主の絶対的権威はまさにこの「理不尽な差別」によって説話的に基礎づけられることになるのです。
同じような話を人類は無数に持っています。ほとんど「そのこと」を語ること以外に知性には仕事がないかのように、私たちは同じ話型を過去おそらく数万年前から、神話として、民話として、宗教として、社会理論として、政治的イデオロギーとして、ときには科学として、延々と語り継いでいるのです。
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