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黒い扇02

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:女流舞踊家国電新橋駅前から小岩行のバスに乗って、久松町で降りると右手に明治座の建物が冬の陽を吸っていた。歌舞伎《かぶき》
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女流舞踊家

国電新橋駅前から小岩行のバスに乗って、久松町で降りると右手に明治座の建物が冬の陽を吸っていた。歌舞伎《かぶき》座、新橋演舞場などと並んで東京では歌舞伎のかかる大劇場の一つであるが、今月は新派が出演しているらしく劇場前に立てられた幟旗《のぼりばた》に人気俳優の名前がずらりと並んでいた。数年前に一度、火災に遇《あ》っているから建物の歴史はまだ新しい。
浜八千代はクリーム色のショールにあごを埋めて、明治座の筋向いの路地を左折した。花柳界をひかえているせいもあって軒並に粋な造りが多い。
二つばかり横丁を曲がって、八千代は「ロメオ」と看板の出ている喫茶店のドアを押した。まだ昼過ぎだというのに黒いレースのカーテンを下した店内はひどく暗い。もっとも、どうせ一日中日の当たらない路地の奥の店だから、カーテンがなければ一層、貧乏臭く見えるのかも知れない。
「やっちゃん、ここよ」
角のテーブルから染子が待ちかねたように手をふった。大袈裟《おおげさ》な声のかけ方をしなくても店の客は彼女一人なのである。八千代はショールを肩からずらして染子の方へ坐《すわ》った。
「わりかし、早かったじゃないの」
運ばれたばかりらしいコーヒーに砂糖を入れながら染子はカウンターの中の店の女の子に顎《あご》をしゃくった。一ぺんに二つも三つもの行動を起こすのは染子の癖である。
「せっかちなもんでさ……」
八千代に指摘されると気まり悪げに首を縮めるが、三味線を弾きながらラジオを聞いたり、電話をかけながら支那ソバを食べるという芸当を相変わらずやってのける。
水を入れたコップをのそのそと持って来た女の子に、
「ちょっと、ちょっと、この人にも早くなんか……」
八千代は笑いながら染子の言葉を引取った。
「ミルク、ちょうだい。熱くしてね」
女の子がカウンターへ戻って行くと染子はついと顔を寄せて来た。
「やっちゃん、聞いた?」
「聞いたって、なにを……」
「海東先生の奥さん」
染子は深刻な表情でコーヒーに唇をつけた。
「歿《な》くなった海東先生の奥様が、どうかなすったの……」
つい、一週間ばかり前の海東英次の告別式で見た、海東未亡人の痩《や》せとがった頬《ほお》を思い出しながら八千代は染子をうながした。
「私ねえ、昨夜、お座敷で聞いたんだけど、海東先生の奥さんったら、修善寺のことをね、あれは心臓|麻痺《まひ》なんかで死んだんじゃあない。海東英次は殺されたんだって……」
染子は慌《あわ》てたように店内を見回した。
花柳界のど真ん中にある喫茶店などというものは、もともと日中からアベック客が押しかけるというものでもないし、商談や用談に利用する客も稀《まれ》である。結局、すぐ近くの検番で催し物の打ち合せや、寄り合いなどがあった場合にコーヒーや紅茶の出前を頼まれる位が関の山だ。第一、芸者衆の大半はお客や恋人と外出する時でもなければ、自分からコーヒーを飲む事は、まあ無い。若い妓《こ》なら稽古《けいこ》が済んで一休みとなれば、一杯五十円のコーヒー代を払うより、ラーメン、なべ焼うどんでもと考えるし、それより年配の姉さん芸者となると、おしるこ屋の方が日本茶も飲めるし落付くしという事になるのだそうだ。
だから、このロメオ喫茶店にしても、
「久松町にあってロメオなんて洒落《しやれ》てるじゃないの、お染久松、ロメオとジュリエット。東西の悲恋物語の男性の名前が、町名と店名で顔を揃《そろ》えてるんでさあ」
と文学芸者という仇名《あだな》にふさわしい意見をふり回して、せっせと通ってくる染子ぐらいが常客で、外にこれという馴染《なじみ》もないらしい。
窓の外を焼芋《やきいも》屋の車が、小石をふみにじって通りすぎると店内は、又、ひっそり閑《かん》となった。
「あのねえ、レコードかけてよ、ん、なんでもいいわよ。どうせ南国土佐か、黄色いサクランボぐらいしかないんだもんね」
ミルクを運んで来た女の子に、染子はずけずけと言いつけた。話の内容が内容なので、せめてすり切れたレコードの音で、他人の耳をくらまそうという了見である。
「染ちゃん、今の話、どこから聞いたか知らないけど、海東先生の奥さんは本気でそんな事、考えてるのかしら」
「考えてるどころか、堂々と言いふらしてるのよ。長い事、別居してて、あげくにぽっくり死なれたんで、とうとう頭に来ちまったんだね」
染子はレコードの高い音に合せて、笑った。
「およしなさいよ、そんな言い方……。だけど海東先生が殺されたって……奥さんは一体、誰《だれ》が海東先生を殺したって言ってるの」
「きまってるじゃないの。彼女がうらみ骨髄に達しているのは、亭主を寝取った……」
染子はペロリと舌を出した。そういう表現に八千代が極端な程、潔癖なのを知っていて、つい言ってみたくなる染子であった。分別でも教養でも育ちでも敵しようがない八千代に対して、年は下でも色恋に関する限りは自分の方が先輩だという、染子の優越感と劣等感が裏表になっている感情が、わざとあけすけな言い方をさせるのかも知れなかった。
「海東先生の奥さんはね、亭主を殺したのは茜《あかね》ますみという悪女の仕業だって言って歩いてるそうよ」
袂《たもと》の中からシガレットケースを取り出しながら染子は正面から八千代を見て言い直した。
赤い格子《こうし》模様の女持のシガレットケースから抜いた一本を唇にくわえて染子はライターをすったが火が点《つ》かなかった。八千代は無意識にテーブルの上のマッチを取ると染子の煙草へ炎を近づけてやった。
「ありがと……」
白い煙を吐いて軽く首を下げた染子の姿に、ふと八千代は能条寛を想い出した。いつだったか彼の煙草へマッチを点けてやってひどく叱《しか》りつけられた事を、である。
「そんな事、するもんじゃない」
彼はそっけなく言うと、いきなり八千代の手から燃えているマッチの軸をつまみ取って灰皿の中へ捨てた。別に改めて自分で火を点けながら、
「君は誰《だれ》にでもそんなことをするのか」
苦い顔をして八千代に訊《き》いた。その詰問するような調子が不快で、
「いいじゃないの、誰にしたって……」
どうせ料理屋の娘だもの、と言いかけて、
「馬鹿、料理屋の娘が商売女の真似をしていいってのか」
寛は物凄《ものすご》い剣幕でどなった。
(失礼しちゃうわ、人が折角、親切でしてあげたのにさ……)
そのくせ、八千代は灰皿へ捨てたマッチの炎を眺めて、なんとなく京都の空が懐かしい。
「なにをぼやんとしてるのさ」
染子に言われて、八千代は我にもなく頬《ほお》を染めた。
「だけど、染ちゃん、いくら海東先生の奥さんがうちの先生を怨《うら》んでるからって、それを海東先生の死因に結びつけるなんて……海東先生がお歿《な》くなりになった原因はちゃんとお医者様が立合って、狭心発作、つまり心臓|麻痺《まひ》だっておっしゃったじゃないの。ますみ先生が殺人犯の筈《はず》がないわ……」
第一、生前の海東英次と茜ますみがかくれた恋人というより、世間でも半公認の愛人同士だった事は邦舞関係に首を突っ込んでいる人間なら誰《だれ》でも心得ている事実であった。
茜流の慰安旅行に海東英次が参加して修善寺へ行ったのも表向きは、いつも作曲の事でお世話になるので、という理由がついてはいるものの、彼が茜ますみと同じ部屋へ泊まったとしても門下生の誰もが別に不思議とは思わなかったに違いない。実際には、それでも若い女性ばかりの同行者に対する気がねからか、茜ますみと海東英次とは一応、隣合せに別々の部屋を取った。が、無論それは形だけの事に過ぎない筈だ。
「海東先生の奥さんだって、なにもますみ先生が毒薬かピストルを使って殺したんだとは言ってないわよ。ただ茜ますみが海東を修善寺くんだりまで誘い出して、酒を飲ませてお風呂へ入れなけりゃあんな事にはならなかった、だから、手は下さずとも犯人同然だっていうのよ。それはまあ女の怨《うら》みが言わせるんだから仕方がないけど、噂《うわさ》はそれだけじゃないんでねえ……」
染子は冷えたコーヒーに眉《まゆ》をしかめた。
「噂ってどんな……?」
八千代は相手の眼の奥を覗《のぞ》くようにして言った。
「茜流の弟子としては聞きづらい話なんだけど、原因はうちの師匠《ししよう》、つまり茜ますみの身持の悪さにあるんでね」
八千代はうなずいた。それだけでなんとなく�噂�の内容が解るような気もする。
茜流の家元、茜ますみは今日でこそ女流舞踊家として五本の指に数えられる程の地位と名声を保っているが、十年前までは先代茜流家元、茜よしみの内弟子の一人に過ぎなかった。その彼女が実子のない茜よしみに気に入られて養女となり、遂にはよしみを隠居させて二代目茜流家元を継ぐようになったのは芸の素質というより、一にも二にもその才気と美貌《びぼう》とを駆使して、茜流の後援者を籠絡《ろうらく》した結果だと言われている。殊に師匠に当たる茜よしみを表向きは隠居とは言いながら、むしろ強引に家元の地位から退け、現役から追い払ってしまったかげには、茜よしみのパトロンを奪ったという風説が専《もつぱ》らだった。
しかも、三十六歳という女盛りを独身で押し通している茜ますみの恋愛遍歴は公けになったものだけでも既に数名の有名人があり、彼女の歩く所はいつも華やかな、艶《つや》っぽいゴシップが捲《ま》き起こっているかの感があった。
「その噂《うわさ》を、そのまんま鵜呑《うの》みにして言うとね。茜ますみは海東英次に飽きた。新しい恋人が出来たから彼が邪魔になっていた。だから……」
「温泉宿へ連れて行って、お酒を呑ませてお湯に入れて殺したっていうの」
「まあね、ちょっと穿《うが》った噂でね。海東先生と深い関係にあった茜ますみ先生だから海東先生が心臓を悪くしていたことも知っているし、純情な八千代ちゃんの前じゃ言いにくいけど、お酒に酔った海東先生を無理に勧めてお風呂《ふろ》へ入れる事が出来るのは茜ますみ先生以外にはない。ますみ先生があのグラマーぶりを発揮して一緒にお風呂へ入ろうって誘えば、男だったらつい、ふらふらと……」
「もういいわ。わかったわ」
八千代は眼を逸《そ》らして染子を制した。料理屋の娘の癖に箱入りに育てられたせいもあって、どうもそう言った男女間の話に八千代は弱い。自分が師事している立場の人の醜聞だけに一層、つらい気がするのだ。
「そう、つんつけしなさんな。なにもこんな噂、私がふりまいてるわけじゃなし、八千代ちゃんが海東先生に関する事で、どんな小さな事でも耳にしたら教えてくれって言うから話したげたんじゃないのさ。話がちょっと色恋の事になると、すぐ汚らしいって顔をする。やっちゃんの悪い癖だよ」
口で言う程には、毎度の事で染子は腹を立てていない。語尾は半分、笑いながら新しい煙草に今度は自分でマッチをすった。
「ねえ、やっちゃん、ますみ先生の新しい恋人って、誰《だれ》だと思う?」
染子はマッチをひねくりながら、再び声をひそめた。
「さあ……」
ちらと、いつぞや能条寛を羽田へ送って行った時にみた、茜ますみとその連れの男の姿が思い浮かんだが、八千代は曖昧《あいまい》に首をふった。腕時計をのぞいて、別に染子へ言った。
「そろそろ検番へ行かなくていいの、お稽古《けいこ》でしょう」
「いいのよ。今日はどうせ久子さんの代稽古だから少々遅れたって苦にならないのさ」
「久子さんの……」
八千代は怪訝《けげん》な眼になった。
「あら、ますみ先生、今日はお休みなの」
「そうよ。なんでものっぴきならない用事があって京都へお出かけになったんですってさ。こっちは久子さん、赤坂の方は五郎ちゃんが代りに稽古してるそうよ」
「ますみ先生、何日からお留守なの」
「さあ、知らない。それは聞かなかったけど……なぜよ」
「何日|頃《ごろ》、お帰りになるかな……?」
「知るもんですか」
八千代は沈黙した。しきりと羽田の夜の茜ますみが思われる。
「そんなに気になるんなら、一緒に検番へ来ない。久子さんに逢《あ》って直接、聞いたらいいよ。ね、そうおしな」
染子は煙草をもみ消すと八千代の返事を待たずに立ち上がった。さっさとカウンターへ行って勘定を払い、先に立ってせまいドアを押した。五尺三寸、十五貫というグラマー芸者だから小柄な八千代と並ぶと、ずっと姉さんじみる。服装の好みも年齢より渋い。かなりな近眼のくせに眼鏡を嫌って、どうしても仕方のない時以外は絶対にかけない。だから一人で外出するとトラックをバスと間違えたり、デパートで商品についている値札を一と桁《けた》間違えて恥をかいたりする。
「大体、非常識だわ、トカゲの皮のハンドバッグが、いくら大棚ざらいだからって、二千三百円の筈《はず》がないじゃないの。慌《あわ》て者ね」
八千代に笑われても、一向にそうした失敗は改まらない染子である。
検番の前の通りには、ずらりと黒い幌《ほろ》をかけた人力車が古風なままに並んでいる。
提灯《ちようちん》の下がっている格子戸《こうしど》を開けると、黒塗りの駒《こま》下駄やビニールの草履《ぞうり》が所狭しと、あがりかまちをふさいでいた。土間には石炭ストーブが勢いよく燃え、そこに立っている下足番は昔ながら半纏《はんてん》着だが、とっつきのカウンターに六、七台も揃《そろ》えてある検番用電話の前に坐《すわ》っている女の子は全部、まるでデパートの店員みたいなグリーンのユニホームを着ていて、背後の壁に芸者名を書いた木札が並んでいなければ、ちょっとした問屋の事務室めいた錯覚さえ起こさせる。
まだ商売の時間には間があるというのに、ひっきりなしに鳴る電話の殆《ほと》んど、この花街の有名料亭からのものらしい。
「お早ようございます。どうも遅くなりまして……」
染子が甲高《かんだか》い声で挨拶《あいさつ》する後から、八千代もそっと草履を脱いだ。
花街や芸界での挨拶は午後でも夜でも「お早よう」と威勢がいい。それが習慣だとはよく知っている八千代だが、彼女の内部にある近代性がちょいとばかり邪魔をして、つい、すらすらと「お早よう」が口に出ない。午下《ひるさが》りの時刻に「お早よう」でもあるまいと、かすかな反抗が心のどこかにあるせいである。
舞台のある二階からは、派手な「越後獅子《えちごじし》」の長唄《ながうた》が流れてくる。
「牡丹《ぼたん》は持たねど、越後の獅子は、か、やってる、やってる……」
染子は口三味線の拍子を取りながらどたどたと階段を上がった。途中の踊り場ですれ違った若い妓《こ》が、
「あら、お姐《ねえ》さん、今日は遅いんですね」
機嫌よさそうな染子へ笑いかけた。それに、くすんと小鼻を皺《しわ》ませて、染子はまだ階段の下にいる八千代へ早く上がって来いと顎《あご》をしゃくった。
稽古《けいこ》場に坐《すわ》っているのは、もう六、七人であった。いつものこの時間ならまだたっぷり十人以上がつめかけて順番を待っている。
茜流は先代の家元、茜よしみの代からこの花街へ、藤間流、坂東流と並んで稽古に入ることになった。日本舞踊の社会では一流の花街へ稽古に入るということは非常な幸運であった。日本の芸界の背景に花柳界が隠然たる勢力を持っているのは周知の事実だし、その花柳界へ芸者の稽古をつけに出入りしていれば花柳界主催で年に数回、行われる舞踊温習会には古典舞踊発表と一緒に新作の振付を担当する。花柳の温習会とは言っても大劇場を三、四日もしくは数週間も借り切って大がかりな興行をやる昨今では、自然、新聞や週刊誌も取りあげようし、都会人の話題にもなる。従って振付師として舞踊家の名を売る絶好の機会をあたえられるわけだ。
もう一つ、花柳界へ稽古《けいこ》に入っていれば、自分の主催するリサイタルや温習会に、そこの芸者衆を出演させる事が出来る。これは経済的にも非常に有利だった。
月に平均十日はある花柳界の稽古日に、他流の家元は大抵、古参の内弟子を代稽古に寄こしているが、茜ますみは余程の差し支えがない限り自分自身で稽古に顔を出した。勿論、数名の内弟子は連れて来ている。そうした熱心さと、新舞踊的なモダンな感覚を売り物にする彼女の作戦が図に当たって、この花柳界における茜流の評判はすこぶるよかった。弟子も多くかなりな数の名取りも作っている。
ここ二、三年、大きな発表会での茜ますみの担当した新作物が圧倒的に好評だった事も、花柳の幹部連中にうけがいい理由だった。
「やっぱり、ますみ先生のお稽古じゃないもんで、みんなサボっちまったのかねえ」
部屋の隅で足袋《たび》をはき代えながら、染子は人数のまばらな舞台前を横目で見た。
「そうじゃないんですよ、染子|姐《ねえ》さん」
稽古《けいこ》扇を帯にはさんで帰り仕度をしていた八重千代という芸者が真顔で染子に言った。
「そうじゃないって、そんならどうなのよ」
「久子先生のお稽古はお家元と違って、すごく合理的って言うのかしら、なにしろテキパキしてるでしょう。同じ三回を繰り返して下さるにしても余分なものが少しも入らないから、いつものお稽古の半分の時間で片付いちゃうんですよ」
「ふーんだ。じゃあ、もう皆さんはお稽古が終わって帰っちゃったのかい」
「ええ。それに久子先生はお昼前からずっと舞台に立ちづめで、ちっともお休みにならないんですって、お茶はもちろん、お昼食も、まだ欲しくないっておっしゃって召し上がらないんですよ」
と、すっかり内弟子の久子に傾倒したらしい八重千代の言葉に、染子はなんとなく八千代と眼を見合わせた。
「相変わらず、久子さんはネツいからねえ」
八重千代が部屋から出て行ってしまうと、染子は低く呟《つぶや》いてちらっと舌を出した。
久子の稽古熱心というか、勝気さをむき出しにした芸への熱意は茜流の同門の中でも有名なものだった。
大体、久子と八千代と染子とは同じ時に名取りとなった同級の姉妹弟子なのだが、いわば踊りの師範免許ともいうべき名前を貰《もら》うまでの修業の歳月には各々《おのおの》にかなりな差があった。
染子はもともとが花街の置屋の娘だから、踊りの稽古《けいこ》はじめは六歳の六月六日からという芸界の慣習通り今日まで曲がりなりにも舞扇を手放さないで来たし、八千代の方はやはり一応は六歳から母の趣味で稽古をさせられていたものの女学校へ進学する辺りから中断して、大学の二年に自ら進んで再び稽古を始めるまでの長い空白がある。
久子は、二人とまるっきり異る道程で茜流の名を貰った。彼女が踊りの社会に足をふみ入れたのは二十三、四になってからである。修業の日数は三人の中で最も浅いその時間的な差を久子は執念にも似た努力で進めてしまった。
そんな位だから弟子に稽古をつけるのも親切で要領がいい。茜ますみも結構彼女を重宝にしている。少々陰気な感じがするのは三十娘特有のもので、人柄は穏やかだし、眼鼻立ちも十人なみな女である。
越後獅子《えちごじし》の華やかな曲が漸《ようや》く一段落ついた時、久子は始めて気がついたような眼を部屋の隅に向けた。
「染子さん、あら八千代さんもご一緒……」
稽古《けいこ》舞台を下りて来た久子の頬はほのかに朱《あか》みがさして、首筋は汗ばんでいた。
十二月の、部屋には火鉢が一つぽつんと片隅にあるだけである。
「ごめんなさい、遅く来ちゃって……」
染子は脱いだ方の足袋《たび》を赤と緑の染め分けになっている足袋ぶくろへ収めながら軽く会釈した。同輩ではあるが年長者だし、まして今日は師匠の代理というわけだから一応は礼を尽くそうという心がけである。
「どう致しまして、代稽古でごめんなさいね。ますみ先生がどうしてもお帰りになれないものですから……」
「先生、どちらへ御旅行なの」
すかさず染子が訊《き》いた。八千代の代理で尋ねた心算《つもり》である。こういうきっかけを捕らえるのは染子の方がずんとうまい。
「関西なんです」
「ああ、大阪のお稽古?」
「それもあるんですけど……」
大阪には茜流の支部がある。月に一度、ますみは飛行機で出張稽古に行っている筈《はず》だ。が、それなら東京の稽古日とかち合わないようにきちんとスケジュールが立てられている。大阪の稽古のために東京の稽古へ顔を出せないというのは理由にならない。
久子はなんということなしに踊り用の手拭《てぬぐい》を指に巻きつけたり、ほどいたりした。茜流の流儀の紋である「あげ羽の蝶《ちよう》」が白地に青で染めてある。今年の春、茜流のリサイタルの時に茜ますみが配り物として作った品だ。
「大阪へは何日、お発ちになったの」
八千代はつとめてさりげなく訊《き》いた。
「海東先生の告別式をお済ませになった後です。九日でしたわね。あれは……」
久子はかすかに苦笑した。困惑の表情でもあった。
「だったら、もう随分になるじゃないの」
「ええ、大阪には三日ばかり、それから京都の方へお廻《まわ》りになったので……」
ゆっくりつけ加えた。
「来年のリサイタルの事の重要なお話があちらでおありらしいのですよ」
「相変わらず御多忙ね。京都は今頃《いまごろ》、寒いでしょうにさ」
「昨夜のお電話では二、三日前に小雪が散らついたそうですのよ。でも、来週のお稽古日には間に合うようにお帰りになるそうですから……」
久子は手拭《てぬぐい》を指からはずして染子を見た。
「新しい小唄《こうた》振りを二、三曲、先生から習っておきましたけど……」
「じゃ、新年のお座敷用になにか……」
「�門松�は、もう……?」
「いいえ、まだ知らないわ、それ、お稽古《けいこ》して頂こうかしら」
久子と染子が稽古舞台に上がったのをしおに八千代はさりげなく廊下へ出た。
検番を出ると八千代は足にまかせて人形町の通りへ出た。
花街をひかえているせいか、洒落《しやれ》た小間物屋の数が目立つ。商店街はすでに松飾りも済んで、暮の大売出しのビラが派手に並んでいる。
師走《しわす》という月らしく、ひっきりなしに交叉《こうさ》する都電、バス、タクシー、トラック、オートバイ、自転車も慌《あわただ》しいし、舗道を歩いている人々の表情もなんとなく、せせこましい感じがする。
八千代は自分の足許へ眼を落してゆっくりと人ごみを歩いた。
「この暮の忙しいのに、どこをほっつき歩いてやがったんだい。店をほったらかして、困るじゃないか……」
不意にヒステリックな女の声が八千代のすぐ近くで喚《わめ》いた。自分のことを言われたような気がして八千代が顔を上げると果物屋のお内儀《かみ》さんらしいのが自転車を下りたばかりの亭主をどなりつけたものであった。パーマのかかりすぎた髪はチリチリで逆立ち、脱色したわけでもなかろうに、赤茶けて艶《つや》がない。雑巾《ぞうきん》でしきりにリンゴをみがきながら口小言を続けている。その痩《や》せとがった狐《きつね》みたいな顔を見て、八千代はふと海東英次の妻を想い出した。
「海東先生の奥さんが、主人を殺したのは茜ますみという女だって、あっちこっちへ言いふらしているんだってさ……」
と染子は話したが、それはやっぱり夫を奪われた女の嫉妬《しつと》、怨《うら》み、ねたみが言わせる妄想だけの事だと八千代は考えた。
(ますみ先生が海東英次を殺す筈《はず》がない)
自分の師匠だから、という割引いた計算からだけではなかった。
(ますみ先生はまだまだ海東先生にぞっこん惚《ほ》れていたんだもの……)
修善寺行の旅行の汽車の中でも旅館へ着いてからも、海東英次に対する茜ますみの態度は多少、弟子の手前を取り繕《つくろ》ってはいたが、男に惚れ抜いている女の媚態《びたい》がそこここに覗《のぞ》いていた。それに、今年の秋、海東英次の作曲による「光の中の異邦人(エトランゼ)」を振り付けし発表したのが文部省主催の芸術祭参加作品となり、その結果こそまだわからないが玄人《くろうと》筋ではかなり好評で、ますみ自身、気をよくして、
「来年のリサイタルも又、海東先生とコンビで舞踊界の連中をあっと言わせるような作品を踊ってみせるよ」
と口癖みたいに言っていた事から推しても海東英次の死は現在のますみにとってマイナスになっても決してプラスにはなり得ない筈《はず》であった。まして、新しい恋人が出来たので海東英次が邪魔になった……等というのは茜ますみを知る者にとって全く理由にならないのだ。茜ますみは三人や四人の恋人を巧みにさばけないような女ではない。
もう一つ、修善寺の例の事件の当夜、茜ますみは海東英次と一緒にギリシャ風呂《ぶろ》へ行った形跡はない。これは笹屋旅館の女中が証言していた。
「はい、海東先生とは廊下ですれ違いました。私はマージャンで徹夜をなすっている離れのお客様の御註文《ごちゆうもん》でビールの追加を運んで行く所でしたんです。手拭《てぬぐい》を下げてギリシャ風呂へ続いている階段を下りていらっしゃる所でした。時間は、もう夜明けの三時近かったと思います。はい、ギリシャ風呂へ下りていらしたとき、海東先生はお一人でした。かなり酔っていらっしゃるらしく、なんだかフラフラしてお出でなので、あんなに酔っていて大丈夫かなと思ったんですけどねえ」
まだ若い女中は気性者らしく取調べの警官へはっきりと答えている。一方、茜ますみは、
「海東先生とは一時すぎまで私の部屋でお話をしていました。勿論新しい仕事のことですわ。お酒ですか……私も頂ける方ですし慰安旅行の夜ですもの。私の方が先に酔ってしまって……海東先生はまだ飲み足りないとおっしゃってビールと、残りのウイスキーを御自分の部屋へ持っていらっしゃいました。おそらく、あれからお一人で飲んでらしたんじゃございませんかしら……私も、もう少しおつき合いをして居ればようございました。そうすればあんなにお酔いになることも、お一人でお風呂へいらっしゃる事も、お止め出来ましたのに……」
と公私の場所を区別しないで事件後何度も繰り返している。
「海東先生が御自分の部屋へお引取りになった後ですか。酔ってしまって頭がガンガンするもんですから内弟子の五郎を呼んでカバンから薬を出させて飲みました。ええ、私、頭痛持ちだもんで持薬があるんです。いつもそういう事は内弟子の久子にさせるんですけど部屋が遠かったんで……五郎は左隣りの部屋でしたから……浴衣《ゆかた》に着かえてすぐに死んだように眠ってしまいました。疲れてもいたんでしょうね。宿の女中さんに起こされるまで夢も見ませんでしたよ」
というますみの言葉は内弟子の五郎も肯定しているから海東英次は午前一時|頃《ごろ》、ますみの部屋を出て、それから一時間余り、自分の部屋で飲み続けてから一人でギリシャ風呂へ出かけたという事になる。
しかし、女中の見た時の海東英次が一人だったからと言って、それだけで彼が一人きりで入浴したとは限らない。ギリシャ風呂へ先に行って待つという方法もあるし、後から誰《だれ》かが来たとも考えられる。
「嫌だわ。私ったらいっぱしの女探偵気取りで……」
交叉点《こうさてん》の信号を仰いで八千代は苦笑した。向い側の舗道では小さな女の子が頻《しき》りに追羽根を突いている。八千代はショールに顎《あご》を埋めてタクシーを探す眼になった。
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