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黒い扇10

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:車の鍵《かぎ》小早川喬の轢死体《れきしたい》は十時過ぎ、通行人に発見された。腹部、胸部、顔面と縦に轢《ひ》かれた彼の死体
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車の鍵《かぎ》

小早川喬の轢死体《れきしたい》は十時過ぎ、通行人に発見された。
腹部、胸部、顔面と縦に轢《ひ》かれた彼の死体は二目と見られぬほどのむごたらしさで、知らせによりホテルからかけつけた茜ますみはその場で失神した。
意識が回復してから彼女は取り調べの警官に、次のような陳述をしている。
「部屋の鍵《かぎ》をフロントへあずけてから化粧室へ立ち寄りました。それから急いで外へ出ますと丁度《ちようど》、小早川さんのオースチンがホテルの前を凄《すご》い勢いで通りすぎる所でした。私、あまり待たせたので小早川さんが腹を立てて、そんな悪戯《いたずら》をなすったのかと思いました。戻って来て下さるだろうと暫《しばら》くホテルの前に立っていたのですけれど、それっきりいくら待っても車は戻って来ませんし、霧がひどくて濡《ぬ》れてしまうのでロビーへ入ってしまいました。よもや轢かれているなんて夢にも思いませんでした。オースチンを運転していた人ですか。走りすぎたのがあっという間でしたし、男だとは思いましたけど顔などは……あの霧でしたし……ええ車内灯は点《つ》いていませんでした」
この彼女の陳述の裏付けはGホテルのドアマンがそっくり証拠立てている。
「その通りです。はじめ男の方がドアを出て行かれ、十分程遅れて茜ますみさんが……はい、男の方は存じませんでしたが、茜ますみさんはよく存知あげています。以前からよくこのホテルを御利用になっていましたから……。ますみさんは黒いショールを髪にかぶりながらドアの外に暫《しばら》く立っていらっしゃり、それから入っていらっしゃってドアの内側から又しばらく外をみてお出ででした。だいぶ経ってからロビーの方へお行きになり煙草をお吸いになっていらっしゃいました。オースチンが通った事ですか。それは私、うっかりして居りまして気がつきませんでした。昨夜は港に船が入ったのでタクシーはチャイナタウンの方へ集中してしまい、このホテルの付近は九時過ぎは殆《ほと》んど通らなかったようですが……」
小早川喬を轢《ひ》いたオースチンは小早川の愛用車だった。
タイヤやボディーに生ま生ましい血痕《けつこん》を残したまま、そのオースチンは山下公園ぎわの路上に置かれていた。Gホテルから約五百メートルばかり先である。
オースチンのドアの鍵《かぎ》は閉まっていた。窓ガラスを破った形跡もない。
車の鍵は、小早川喬が右手に掴《つか》んだまま死んでいた。洒落《しやれ》たイタリアングリーンのキイホールダーには車の鍵と小早川喬のアパートの部屋の鍵、及び洋服ダンスの鍵とが各々《おのおの》、持ち主の血にまみれてぶら下がっていた。
オースチンのハンドル、ドア、その他から取れた指紋はすべて小早川喬のものばかりである。
つまり、小早川喬を轢《ひ》いたとみられる彼の愛用車オースチンの状態から判断すると車は無人のままGホテルの駐車場を抜け出し、主人であるべき小早川喬を轢殺《れきさつ》し約五百メートルを走って止まっていた、という事になるのだ。
運転手のいない車が突然、暴走するという事故はあり得ない事ではない。が、それはあくまでも偶発的な場合で、今度のオースチンにはあてはまらない。
外部から損傷して車を何者かが運転したのでもないとなると、当然、問題になるのは車の鍵である。
鍵は二箇あった。
一つは小早川喬が右手に掴んだキイホールダーに付いている。
もう一つは……。
「私がおあずかりしていました。勿論、小早川さんからですわ」
茜ますみは落ち付いて答えた。
「でも、それは今日は持って居りません。東京の自宅へ置いて来てしまいましたの。はい、私の居間の手文庫の中にある筈《はず》ですわ」
係官は直ちに東京、赤坂の茜ますみの自宅を調査した。
鍵は茜ますみの言った場所にちゃんとあった。異状もない。
「昨日、茜ますみさんが外出してからの人の出入りについて詳しく言って下さい」
という係官の問いに留守番役である内弟子の久子と女中の愛子が代わる代わる答えた。
「ますみ先生がお出かけになりましたのは、午後三時すぎでございます。はい、その前に�薄墨�という料亭のお内儀《かみ》さんから電話があって、それが切れると今度はますみ先生が小早川先生へお電話をされて、間もなく小早川先生がお出でになりました。いつものオースチンを運転していらっしゃってお二人でお出かけになりました。それっきりでございます」
「先生が急にお出かけになりましたので、私は内弟子の五郎さんを電話で呼びました。今日は稽古《けいこ》日でお弟子さんがお見えになりますし、いつもは私一人でも片がつくのですけれど……あの、生理日だったものですから、ちょっと辛い気がして……五郎さんに応援を頼んだのです。先生のリサイタルも近づいていまして稽古も普段より大変だったんですの」
「ええ、久子さんは午前からお腹が痛むし、しんどいって言っていました。五郎さんは三時半|頃《ごろ》、四時近くでございますか、やって来まして、それから久子さんとお弟子さんのお稽古《けいこ》をなすっていました。七時少し前に五郎さんはお帰りになり、残りの二、三人のお稽古は久子さんがなさったんです。ますみ先生ですか、勿論《もちろん》、遅くとも御帰宅なさると思ってましたから、十二時すぎまで起きてお待ち致していましたんですよ」
「はい、ますみ先生は無断で外へお泊まりになる事は一度もございません。それはどうしてもおつき合いなどで夜は遅くなりますし、旅行もございます。けれど、どんな急の場合でもお電話を下さいますから……。昨夜もお帰りになるとばかり思っていましたので、ずっと……十二時をすぎてから愛子さんは朝が早いので気の毒と思い先におやすみなさい、と申しました。私は起きて居りました。でも疲れていたので、少しはうとうとしていたかも知れません」
お弟子さん以外の来客はなかったし、ますみの居間へは愛子が掃除に入った以外に誰《だれ》も入りはしない筈《はず》だと、これは二人が口を揃《そろ》えて答えた。
「ねえ、ちょっとしたスリラー小説の題名になるんじゃないか。無人自動車殺人事件ってのは堅苦しいかな。でなけりゃ影なき殺人なんてのはどう……」
丸の内ホールの廊下の長|椅子《いす》に腰を下すと染子は待ちかねたように喋《しやべ》り出した。
ホールの入口に「長唄《ながうた》花蝶会演奏会」のはり紙が出ている。染子達の花街の芸妓《げいこ》ばかりが常日頃《つねひごろ》の精進ぶりを発表する長唄の温習会である。
染子は踊り専門で長唄も清元も苦手だが先輩の姐《ねえ》さん株が出演しているため止むなく義理で顔を出し、退屈しのぎに八千代へ電話をして呼び出したという恰好《かつこう》である。
もっとも、八千代を呼び出した理由はまだ他にもある。
とにかく八千代がやって来たのが「勧進帳《かんじんちよう》」の演奏中だったので席を立つことは勿論《もちろん》、小声の会話も憚《はばか》かられて、染子は長い演奏中じりじりしながら幕の下りるのを待った。胸に思っていることを長く貯めておけない性質である。幕が下りたとたんに八千代の袂《たもと》を引っぱって、さっさと廊下へ出てしまった。
「嫌だわ。染ちゃん、これじゃ長唄《ながうた》聞きに来たんだか、染ちゃんとお喋《しやべ》りしに来たんだかわかりゃしないわ」
サマーウールのイタリアングリーンのワンピースの大きく拡がった裾《すそ》を気にしながら八千代は明るく笑った。
「なに言ってんの。もともと長唄聞く気もないくせにさ」
きめつけた染子も若草色に白で藤《ふじ》を描いた訪問着に青海波《せいがいは》の帯を締めている。
「大きな声……聞こえるわよ」
八千代に言われて染子は首をすくめた。
「けどね。なんだか嫌んなっちまった。昨年っから妙な事ばっかしだもん、ここんとこお座敷でもそんな話ばかりなのよ。茜流の名取りだってことが恥ずかしいみたいよ」
染子は口をとがらす。
「あんたところのお母さん、言うわないの。茜流を脱退しろって、え、八千代ちゃん」
八千代は気弱く微笑した。
「まあね、口に出しては言わないけど……」
「出来れば他の流儀に変わって貰《もら》いたいと思ってるんでしょ。そうよ。それが当たり前よ」
つけつけと言ってのけた染子は、細長いハンドバッグの中からチューインガムを出した。
「食べない」
「ありがと」
八千代は不思議な顔をした。
「染ちゃん、煙草は……」
当然、彼女が取り出す筈《はず》のシガレットケースはハンドバッグの中になかったようだ。
「止めたのよ。肌に悪いっていうし、痩せるために吸ってたのに一向、やせもしないもの。つまらない……」
「でも、よく止められたわね」
一日に二十本は吸っていた染子である。
「私が止めた代わりに久子さんが吸い出したわよ」
「久子さんが……」
茜ますみの内弟子の中でも一番|真面目《まじめ》で固いといわれている久子である。アルコールは相当強いとされているが、それだってビールならコップ一杯、日本酒でも盃《さかずき》に三つとは重ねた事がない。
「あんまり、考え事が多いんで、とうとう煙草でも呑《の》む気になったんだって、昨日逢《あ》ったとき憂鬱《ゆううつ》そうな顔してたわよ。変な事件ばかりますみ先生が引き起こすもんで、あの人も気が気じゃないんでしょ。素人《しろうと》のお弟子さんはみんな稽古《けいこ》を休んでるらしいし、今度の温習《おさらい》会にだって、休演する人が続出するらしいわ。可笑《おか》しな言い方だけど、お嫁入り前のお嬢さんなら、茜ますみの弟子だってことはあんまり名誉じゃないものね。どうせお嫁入りの時に箔《はく》をつけるつもりで踊りの稽古をしてるんだったら、他の流儀へ移ったほうが無難だっていうのさ」
「ますみ先生だって好きこのんで事件を起こしてるわけじゃないし、お気の毒だわ」
「そりゃそうだけど、いわば身から出たサビみたいなもんでしょう。赤坂のね、�薄墨�のお内儀《かみ》さんね。ますみ先生のなくなったお母さんの友達のあの人まで、いい気味だって喜んでるそうよ。恩知らずの人間にはおあつらえむきの天罰だってさ」
染子は、くちゃくちゃとまずそうにチューインガムを噛《か》んでいたが、思いついたように訊《き》いた。
「そう言えば、八千代ちゃん、あんた黒い扇のこと誰《だれ》かに訊いた……」
「黒い扇……」
どきりとして八千代は眼をあげる。
「小早川先生のお葬式の日に着いた電報のことよ」
「知らない。なによ」
「ほら、人が死んだりなんかしたときに来る電報があるでしょ。黒い枠に電報の文句が書いてあるのさ」
染子は如何《いか》にも芸者育ちまるだしの言い方をした。
「弔電のことでしょう」
八千代は染子のもたもたした言い方を封じた。少しも早く先が聞きたい。
「それがどうしたのよ」
「小早川喬のところへは、勿論《もちろん》、沢山の弔電、っていうの、その電報が来たでしょう。その中に変な文句のがあったのよ。それを内弟子の五郎ちゃんが見つけて、久子さんに話し、久子さんがますみ先生に見せたんだって。私、うちのお母さんに訊《き》いたのよ」
「だから、なんて書いてあったの」
八千代は染子の肩をゆすぶった。肝腎《かんじん》の時に、のんびりしている染子が苛立《いらだ》たしい。
「待ってよ。どうせ、あんたが聞きたがるだろうと思って手帳に書いて来たから……」
染子はハンドバッグをあけて、小さなメモ帳をとり出した。稽古《けいこ》日やらお座敷の約束日なんぞが、書いた当人でなくてはわからないようにごちゃごちゃ並んでいる間を覗《のぞ》いて、
「これよ、これ、ツツシミテオクヤミモウシアゲマス……」
「なによ。当たり前の弔文じゃないの」
「まってらっしゃいよ。気が短いね。あとがあるのよ、ツツシミテオクヤミモウシアゲマス、クロイオオギ、ロシウ。どう、八千代ちゃん」
染子の手から八千代はメモ帳を取り上げた。まっ黒けな鉛筆の文字をたどる。
「慎しみておくやみ申し上げます。黒い扇。まではわかるけど、ロシウってなにかしら」
「八千代ちゃんにわからないもの、私に分かる筈《はず》はないでしょ」
次の幕あきのベルが鳴るっていたが、染子は勿論《もちろん》、八千代も立ち上がらなかった。
「本当ならここんところは人の名前が来る部分でしょ。差出人のね。例えば、ツツシミテオクヤミモウシアゲマス、ソメコって具合にね……」
「嫌だよ。八千代ちゃん、そんな縁起でもないものに名前を引き合いに出さなくたっていいじゃないさ」
染子は顔中をくしゃくしゃにした。花柳界の人間らしく若い癖に縁起かつぎな所があるのだ。チューインガムを紙に吐いて、まるめて捨てた。
「でもさ。ロシウなんて名前にしたら変テコリンじゃないの。アメリカさんかなんかかしらね」
「さあ……もしかすると符号みたいなものかも知れないわね。染ちゃん、ますみ先生はその電報ごらんになって、なにかおっしゃったの」
「なにをおっしゃるもんですか。私の聞いた話ではね。まっ蒼《さお》になってなにも言わずに、いきなり電報ひったくって奥へ入っちゃったんだって……」
染子はひょいと顔をあげてホールの入口を見た。
「あら、菊四ちゃん、ここよ」
中村菊四は受付で挨拶《あいさつ》を済ませると、真っ直ぐに染子たちの方へ近づいて来た。
淡いブルーの背広にきちんとネクタイを締めて一分の隙《すき》もないスタイルは見事だが、身ごなしの柔らかさにふっと女形《おやま》がのぞきそうだった。
八千代の前に立つと、切れの長い眼に甘い微笑を浮かべた。
「お久しぶり、八千代ちゃん」
胸に止まっている真珠のネクタイピンはキザなようでよく似合っていた。八千代は立ち上がって目礼した。あまり好意の持てる相手ではない。最近、しきりと用もないのに電話をかけて来て映画へ誘ったりする菊四の態度に多少の不安を感じていた矢先でもある。
「舞台、済んだの」
染子は珍しく機嫌のいい調子を菊四へ向けた。
「ああ、今日は昼の部は出ずっぱりだけど、夜は幕開き狂言だけで体があいちゃうのよ」
「そいつは危険だね」
「なんで?………」
「いいえ。遊ぶだろうって事よ。菊四ちゃんのことだから」
歯切れのよい染子の喋《しやべ》り方は菊四より余《よ》っ程《ぽど》、男性的で聞いている八千代はなんとなく可笑《おか》しくなる。
「御冗談でしょ。私は人が言う程、遊び好きじゃありませんよ。そりゃおつき合いやお義理で顔を出すことも多いけど、いわばあんた達のお座敷と同じことだもの」
「お座敷ね……」
染子はくすんと笑って言い足した。
「今夜はどうなの」
「全くのフリーですよ。折角、染ちゃんがお電話して下すったんですからね。この機をはずしては罰が当たる……」
「それは誰《だれ》ゆえ……でしょう」
染子は芝居の声《こわ》色を使った。
「双面水照月」の中の恋に狂った破戒坊主、法海坊の台詞《せりふ》である。
「嫌だわね。法界坊なんて柄じゃございませんよ」
菊四はちらと傍の八千代を眺める。意識した眼使いであった。
「あい済みませんね。天下の色事師を乞食《こじき》坊主扱いに致しまして……」
染子は鼻の先で笑うと、声を変えた。
「そいじゃ今晩、私たちとつき合う」
「染ちゃん……」
小声で八千代は染子の袖《そで》を引いた。常にない染子の調子が親友ながら空怖しい。
「いいのよ。私にまかせておきなさいったら……」
染子は八千代の迷惑を問題にしない。
「つき合いますとも。そうだ。今夜は私がお二人になんでも御馳走《ごちそう》しますよ」
菊四は大げさな身ぶりで二人の女を等分に見た。
「吾妻《あづま》八景」と「蜘蛛《くも》拍子舞」の二曲だけを神妙に聴いて中村菊四は染子と八千代をうながしてホールを出た。
「車が向こうに置いてあるんだけど……」
菊四はポケットから出したキイホールダーにぶら下がっている車の鍵《かぎ》を故意に指先でじゃらつかせながらビルの裏側を指した。
「自家用で来るとはお手回しのいいことですわね」
染子は片眼をつぶって見せて、菊四と肩を並べた。左手は八千代の右手を握っている。
中村菊四の自動車狂は歌舞伎《かぶき》畑でも有名だった。歌舞伎俳優の中で一番先に運転免許証を取ったのも彼なら、自家用車を自分で運転して楽屋入りをしたのも彼であった。
尾上勘喜郎の息子《むすこ》の能条寛とは同じ年で、中学校まで同級だった。連獅子《れんじし》の胡蝶《こちよう》を二人で踊ったこともある。
寛が学校からK大へ進んで舞台から全く遠ざかった頃《ころ》、菊四は美貌《びぼう》と若々しい芸とで若手歌舞伎役者のホープとして頻《しき》りに雑誌のグラビヤなどに騒がれ、演劇評論家からも絶賛された。しかし、人気が高まるにつれ、身辺に華やかな女の噂《うわさ》も姦《かし》ましくなって、相かわらずの美貌は若|女形《おやま》随一だが、芸の方は十年前とあまり変わりばえもしない。むしろ、見る人にはあれたとさえ言われがちな今日この頃の彼であった。女出入りの多いことも彼の評判を悪くしていた。
彼の芸が伸びなくなった理由を専門家は、
「競争相手がいなくなった為……」
ときめている。つまりライバルの能条寛が舞台を去った事が彼の成長をストップさせたというのだ。事実、中村菊四は能条寛に相当な敵対意識をもっていたようだ。
彼が自動車の運転免許証を、まだ自動車ブームには程遠かった時代に逸早《いちはや》く手に入れたのも、一部では能条寛がグライダーの操縦で日本学生選手権大会で一位に入賞したのに刺激されての事だと見ていた。
「彼が空をとぶなら、俺《おれ》は地上を自由に走り回ってやる。その方が実用的だし現実的さ」
と中村菊四がうそぶいたというまことしやかな伝説さえ伝っている。
パーキングメーターにきちんと駐車してあった中村菊四の自家用車はキャデラックであった。歌舞伎《かぶき》の若|女形《おやま》の彼にしては贅沢《ぜいたく》すぎるこの車も、実は彼のファンである某実業家の夫人がプレゼントしたものだといわれている。
馴《な》れた手つきで車の鍵《かぎ》をあけると、菊四は運転台へ坐《すわ》り、後のドアを開けた。女二人は後部の座席に収まる。
「八千代ちゃんをお隣りに坐らせたいところでしょうけどね」
染子は思わせぶりに笑って、ハンドバッグをあけた。煙草を探して止めたことに気がついたらしい。パチンと口金をしめる。
夕暮れの都会をキャデラックはすべるように走り出した。
キャデラックが止まった所はアメリカ大使館の向かい側のビルの前だった。
四角い門灯に「ざくろ」と浮いた平仮名の文字がビルとは不似合いな情緒をかもし出している。
「一体、なんのお店、なにを御馳走《ごちそう》してくれる気なのさ」
ドアを押して先に階段を地下へ下りて行く菊四の背後から染子が物珍しげに訊《たず》ねた。
「まあまあ文句は後ほど御ゆっくり……」
和服姿の女中が迎え、菊四は馴《な》れた物腰で部屋を指定した。常連らしく女中たちの愛想もいい。
通されたのは民芸風な造りの四畳半であった。隅に自在鉤《じざいかぎ》が下がった囲炉裏が切ってある。季節柄、火は入っていない。
「どう、ちょっと洒落《しやれ》た店でしょう」
菊四は絣《かすり》の座布団へ坐《すわ》ると、八千代へ微笑した。畳も独特なものならテーブルもゴツゴツと粗《あ》らい感じのものである。
女中がおしぼりと茶を運んで来た。ちらと八千代と染子を見て、菊四へ訊《き》いた。
「なにをお持ち致しましょう」
差し出したメニューを菊四は無視した。
「料理は例の奴《やつ》、サラダをたっぷりつけてね。こちらのお嬢さんは銀座の�浜の家�さんの一人娘さんだから、今日の味は格別に吟味《ぎんみ》して貰《もら》いたいね」
女中は今度は正面から八千代だけを見た。
「お飲み物は何に致します」
笑っている顔の裏に複雑な女の表情があるようだと八千代は直感した。意識的に「浜の家」の娘、と自分を紹介した菊四のやり方も不快である。
「そうだね。染ちゃんはお酒の方がいいんでしょ」
染子は取りすましておしぼりを使っている。
「私はどちらでも……八千代ちゃんは飲めませんのよ」
「それじゃお酒とビールと両方、頼むよ」
はい、と応じて女中は又、八千代を意識した。
「そちら様へはおジュースでもお持ちしましょうか」
「私でしたら結構ですわ。お茶のほうが有難いんですの」
八千代は柔らかく断った。遠慮でなしに甘ったるいジュースを料理の間に飲むのは好きでない。
「染ちゃんは大阪へ行ったことあるの」
女中が障子を閉めて去ると、菊四はまず染子へ問うた。
「はばかりさま、箱根よか西へは行ったことがございません」
踊りやら芝居見物にかこつけて八千代と何度か京都へは出かけている染子なのに、わざと白ばっくれてみせる。
「それじゃ、大阪のシャブシャブって肉料理は食べたことがないでしょう。八千代ちゃんはどうかしら」
「知りませんわ」
大阪と聞いただけで、八千代はふと能条寛を思い出していた。
「御存知ないんなら、ちょうどよかった。この店はね、東京でたった一軒、そのシャブシャブって料理を食べさせる店なんですよ」
「なによ、シャブシャブって……」
染子はくの字なりに横ずわりした体をテーブルに行儀悪く突いた肘《ひじ》でささえながら訊《き》いた。
「それは口で言うより現物を見た方が手っとり早いよ」
女中が盃《さかずき》とコップを並べ、ビールを抜いた。染子へ酌をし、菊四へ勧めた。すぐにオードブルの小皿が並び、間をおいて朝鮮料理にでも使いそうな奇妙な形の鍋《なべ》を持って来た。
鍋の真ん中が茶筒のように円筒形の火入れになっていて真っ赤におきた炭火が入っている。鍋にはスープが入っていた。ぐらぐらと沸騰《ふつとう》している。
別な女中が大皿に薄く切った肉と野菜を運んで来た。
「まず、お手本を仕《つかまつ》ろうかな」
菊四は女のようにしなやかな指先で器用に箸《はし》を扱うと肉をはさんでスープの中で軽く二、三回およがせた。真っ赤な肉が忽《たちま》ちベージュ色に早変わりする。それを小どんぶりに出来ているゴマのたれをつけて食べるという寸法であった。
「へえ、お湯ん中でジャブジャブ湯がいて食べるから、それでシャブシャブってのか」
染子はビールと酒をちゃんぽんに飲みながら、よく食べた。
「これはビールによく合う料理ね」
菊四は大きくうなずいた。
「そうでしょう。ねえ、八千代ちゃんも少しばかり飲んでごらんなさいよ。番茶よか余《よ》っ程《ぽど》、料理がうまくなるから……」
執拗《しつよう》に勧める菊四に、ついコップ半分のビールを注がれて、八千代は当惑した。
「私、本当に頂けませんのよ」
「可笑《おか》しいね。近頃《ちかごろ》のビヤホールは女性のグループが多いってじゃないの。ビールぐらい飲めなくてどうするもんですか。親友の染ちゃんが茜流切っての酒豪だってのに……」
一口含んだだけで眼許を染めてしまった八千代を菊四は娯《たの》しむように見た。
「おっしゃいましたね。私が茜流きっての酒豪だって。とんでもございません。上には上がありましてね」
染子は勢よくコップを乾して笑った。
「そう言や、茜流はますみ女史がまず第一のツワモノだからね。朱にまじわればなんとやらでお名取り連中にも女|酒呑童子《しゆてんどうじ》が多いわけか……」
「内弟子の久子さんだって大人しそうな顔してるけど案外なのよ。それに五郎ちゃんなんか凄《すご》いわ」
「そうそう五郎君ね。あいつは特別だ。昨日だったかな銀座のGってバーね。あそこで真っ蒼《さお》になるまで飲んでたよ。あいつの酒は陰気だな。バーの女の子もそう言ってたよ。飲めば飲む程、気が滅入ってきそうだってね」
ビールも既に六本が空らになりお銚子《ちようし》も何度か女中が追加に立って、菊四は上機嫌に口も軽くなった。染子のほうもかなり飲んでいる筈《はず》だが、こっちは意外にしゃんとしている。
「へえ、五郎ちゃんってGなんかへ行ってるの。金持ちの息子《むすこ》は内弟子に来てても違ったものだね」
染子の言葉に菊四が訊《き》いた。
「金持ちの息子なの。あの人……」
「別府……九州の別府温泉の旅館の息子だってよ。ねえ、八千代ちゃん」
八千代は小さくうなずいた。
「旅館ったってピンからきりまであるからねえ」
菊四には、どうも五郎の実家が裕福というのが気に入らないらしい。
「別府の中でも山の手で、割合に高級旅館ばかりが集まっている観海寺《かんかいじ》温泉っていう所の、かなり大きな旅館ですってよ。そうでもなけりゃ息子《むすこ》を東京でアパート暮らしをさせ、好き勝手な真似が出来るだけの仕送りをしてやれる筈《はず》もないわね」
染子はしきりに八千代へ同意を求める。八千代はしょうことなしに小さくうなずくだけだ。料理は美味でも、好ましくない相手に御馳走《ごちそう》されているのでは気が重い。酒の量が増えるに従ってだんだん露骨になっている菊四の視線も気になった。
「いくら金のある旅館の息子か知らないが、踊りで身を立てるってのは素人《しろうと》さんじゃ容易な話じゃあるまいに、もの好きがいたものだね。親も親だと思うよ。同じ金をかけるなら大学でも卒業させたほうが余《よ》っ程《ぽど》、つぶしがきくんじゃないのかしら」
菊四は皮肉たっぷりに笑う。口許が女のように小さく細い。
「だって仕様がないのよ。御当人がますみ先生にお熱をあげてさ。坐《すわ》りこみで弟子入りしたんだもの」
「そうだってね。ますみさんはあれでしょ。パトロンの岩谷さんと約束して男の内弟子は絶対にとらない主義だったんだけど、九州の公演旅行中、ずっと追いまわされて遂に根負けしちゃったんですって、あの頃《ころ》、評判だったじゃないの」
菊四は白い指で重たげにビールを染子のコップへ注いでやった。
「でもさ、彼、今でもますみ先生に熱あげてるの」
「勿論《もちろん》よ、なぜさ」
五郎のますみに対する片思いは茜流中での公認みたいなものだ。
「ますみさんがあんまり無情だもんで、彼奴《あいつ》、とうとう脳へ来たのと違うの」
やんわりと菊四は意味ありげな微笑を洩《も》らした。
「それ、どういう意味よ、菊ちゃん」
染子は菊四のシガレットケースから一本を取って火を点《つ》けた。
染子の唇が白く煙を吐いたので八千代はあきれた。
「染ちゃんったら、煙草止めたんじゃなかったの」
「ふふ……一本だけよ」
含み笑いして染子は酔いの浮かんだ眼を菊四へ向けた。
「菊ちゃんって、どうして茜ますみ先生にそう関心があるのさ。彼女に色気を感じてるんだったら菊ちゃんらしく、もっと単刀直入に切り込んでみたらいいのに、色恋のベテランらしくもない」
菊四は慌《あわ》てて否定した。
「とんでもない。いくら年上ばやりだって言っても十歳も年長のますみ女史に熱あげるほどアブノーマルじゃありませんよ。わたしが茜ますみさんに関係があるとしたら、そりゃあ家がお隣同士だから、という以外に理由はございませんね」
「じゃ、そういう事にしときましょう。あんまり野暮を言うとみっともないからね」
染子はあっさり煙草を灰皿へもみ消すと立ち上がった。化粧室へ行くらしい。
「茜先生のお宅とお隣でしたの。少しも存じませんでしたわ」
二人さし向いのぎこちない沈黙を怖れて、八千代はさりげない話題を探した。
「実は最近、親父《おやじ》の家から引っ越したんですよ。茜ますみさんの家の裏側のアパートへ」
「ああ、するとニューセントラルアパートっていう、新築の……」
「そうなんですよ。いつまでも部屋住みってのも気がきかないですからねえ。家賃は少し高いけど、暖房も冷房もきくし、なにより交通が便利でしょう。寝室と居間とリビングキッチンにバス、トイレ付、ちょっとしたホテルみたいな感じですよ。小ぢんまりしてて、今度、お稽古《けいこ》の帰りにでも遊びに来ませんか、歓迎しますわ」
菊四は八千代との対話になるとずっと男らしい話ぶりになる。八千代が返事に窮していると一人で雄弁になった。
「隣に住んでみると、ますみ先生の所の複雑さがなんとなく解るもんですよ。人の出入りなんかでね。今度の小早川喬の殺人事件についても、わたしはちょっとしたネタと言えるかどうかわかりませんけど、まあ或《あ》る目撃ですよ」
「目撃ですって……」
「ええ、あの晩のこと……です」
「小早川先生が横浜で車に轢《ひ》かれた日のことなんですの」
八千代はつい好奇心に我を忘れかけた。
「そうですよ」
「どんな事を……」
「ここじゃ言えませんね。なにしろ事件が事件だから、あまりかかわり合いになりたくないし」
染子の足音が廊下を戻って来た。
「まずいな。染ちゃんには聞かせたくないんですよ。いや、染ちゃんに限らず、誰《だれ》にも話したくはないんです……」
菊四は低く舌うちしたが、染子の足音は途中でふと止まった。
「ちょっと、ちょっと、あんた」
女中を呼び止めたらしい声が、
「ねえ、電話はどこにあるの」
と訊《き》いた。
「お電話でございますか、どうぞこちらへ……」
女中が答え、案内するらしい気配が再び廊下を遠ざかった。
「ねえ、菊四さん、聞かせて頂けませんかしら。小早川さんの轢死《れきし》事件の時、あなたはなにを目撃なすったんですの」
八千代は足音に耳をすましているらしい菊四へ大急ぎで訊いた。中村菊四の言うことだから、どれほど信用出来るかどうかは疑問だったが、茜ますみの周囲に起こった三度目の殺人事件(少なくとも八千代はそう考えている)だけに聞きのがしには出来ないと思った。
「それがね、ちょっと……」
菊四はちらと八千代を窺《うかが》い、口ごもった。もったいぶっているようでもあるし、何かを怖れて言い渋っているふうでもある。
「私、言っていけないことでしたら、誰《だれ》にも話しませんわ。少なくとも菊四さんにご迷惑のかかるようなことは……」
「そりゃ、八千代ちゃんはそう言うけどね。物事はそう簡単には行かないでしょう。第一、八千代ちゃんがその心算《つもり》でも結城《ゆうき》の小父《おじ》さんは新聞屋だもの……」
「え……?」
八千代はあっけにとられた。中村菊四の口から何故、伯父《おじ》の結城慎作の名前が出たのかすぐには理解し難かった。
「そりゃ結城の伯父様はM新聞社につとめているけれど、それが一体、なんの関係があるんですの」
「だってそうでしょう。八千代ちゃんは結城の小父さんに頼まれて、今度の殺人事件のネタ探しをしているんじゃないの」
菊四は唇をすぼめて八千代を見た。図星だろうといいたげな表情である。
「まあ……」
菊四の解釈に八千代はなるほどそういう考え方もあるかと感心した。しかし、そうではないと弁解するには、適当な言いわけもないし、海東英次、細川昌弥、小早川喬と三人の男の死因を茜ますみの周辺に関係があると確信している八千代自身の推理を説明するのもめんどうだった。すっぱり打ち明けて話が出来る程、気の許せる相手でもない。八千代が逡巡《しゆんじゆん》していると、中村菊四は自分から再び水をむけて来た。
「僕の持っているネタって言うのは車の鍵《かぎ》の事なんですよ」
「車の鍵ですって……」
八千代の眼が輝いたのを認めると菊四は落着いて盃《さかずき》を取り上げた。
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