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黒い扇15

时间: 2019-12-08    进入日语论坛
核心提示:割烹《かつぽう》旅館菊四はまめまめしく八千代のために椅子《いす》を引き、彼女が腰をおろすのを見定めて真向いの席へ戻った。
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割烹《かつぽう》旅館

菊四はまめまめしく八千代のために椅子《いす》を引き、彼女が腰をおろすのを見定めて真向いの席へ戻った。
「遅れてしまってごめんなさい。お店が混んでいたものですから……」
八千代はそんな言い逃れをした。
「ああ、ちょうど時分どきですからね。八千代ちゃんもお店の方を手伝うの」
「いいえ、でも時折はね。御挨拶《ごあいさつ》くらいの事なんですけれど……」
「『浜の家』さんのお茶漬《ちやづけ》はとってもおいしいんだって仲間中の評判なんですよ。僕も一度、御馳走《ごちそう》になりに行ってもいいかしら」
「どうぞ、噂《うわさ》ほどの事はないんですのよ。あまり御期待なさらないでお出かけ下さいな」
そうしたやりとりをしている中に八千代はコーヒーをあらかた飲んでしまった。早く話の本題に入らなければと思うのだが、きっかけがうまく掴《つか》めない。
Sパーラーの中はかなり混んで来ていた。土曜日なのである。
「どうもこうさわがしくては落ち付いて話も出来ませんね。場所を変えましょうか」
菊四が勘定書を取って立ち上がったとき、八千代は一応ためらった。菊四はどんどん先に出てしまう。止むなく八千代も後に続いた。
道路へ出て、菊四がタクシーを止めたので八千代は慌てた。
「菊四さん、私、遠くへ出るつもりではありませんのよ。すぐに帰ると家へ言ってありますから……」
「なに、近くなんですよ。十分とかかりゃあしません。さあ早く」
うながされて八千代はつい乗った。この辺は停車禁止で長くタクシーを止めておくことが出来ない。続いて菊四も乗り込んだ。運転手に、
「神田」
と命じ、別に八千代へ説明した。
「神田にね。昔から知っている家があるんですよ。あの辺りには珍しく洒落《しやれ》た料理屋で川魚がうまいんです。鮎《あゆ》でも食べませんか」
曖昧《あいまい》に八千代がうなずくと菊四は安心したようにクッションに背をもたせかけた。それで八千代は気がついた。
「あら、今日は菊四さん、車は……」
御自慢のキャデラックを運転して来たのではなかったのか。
「車はアパートへ置いて来ましたよ。銀座へ出る時はタクシーの方が利口なんです。駐車場で往生しますからね」
屈託なく笑った。
「この間なんかね。どこにも車を止める場所がなくて、五丁目に用事があるのに日比谷のほうまで行って車を置いて、それからテクって銀座まで、夕立があったでしょう。嫌になりましたよ。東京は確かに車の数が多すぎますね」
タクシーは数寄屋橋《すきやばし》の交叉点《こうさてん》で長いこと信号待ちをした。ラッシュアワーである。
道路に面して洋品店とバーの看板が圧倒的に多い。
クララ、ドモンジョ、プチ、ササールなどと外国女優の名を連想させる店名にミッチイ、ナミ、おとき、小春、静、ヱル、ブンケなど和洋取りまぜたバーづくしに八千代はいつも思う、これだけの数のバーがとにかく採算がとれるだけに繁昌しているのだったら、日本の男性には如何《いか》にのんべえが多いかという事である。
それを、口にすると菊四は笑った。
「男性ばかりのせいにしてはいけませんよ。近頃《ちかごろ》は女性専門のバーも随分あるんですよ。美男のバーテンを揃《そろ》えたりしてね」
「でも、男性のバー通いにくらべたらごく少数ですわ。女性の左ききなんて」
「そりゃまあ、そうですね」
「でも男性って、どうしてそうお酒が飲みたいのかしら」
「世の中には不快な事が多すぎますからね。腹を立てても仕方がないし、憤《おこ》ってみてもどうにもならない。それが重なるとつい、酒にでも逃げ込みたくなるんでしょうね」
「卑怯《ひきよう》だわ。そんなの……」
「しかし、社会が社会だから、息苦しくもなるんですよ。女性と違って男性は一生、社会ってもんと鼻を突き合わせて生きて行かなきゃなりませんから、辛くもなるでしょうよ」
「だったら……安息のためにお酒を飲むのなら家庭でお飲みになったらいいわ。そのほうが安上がりだし、安定感があっていいでしょうに……」
八千代は料理屋の娘らしからぬ言い方をした。若い女性が一応はこねたがる理屈である。
「八千代ちゃんはお嬢さんだから、まだ男性心理にうといのは当り前だけど、男ってものは酒をのむためばかりにバーへ行くんじゃありませんよ」
菊四の言葉に八千代はひどくプライドを傷つけられたような気がした。
「そんな事くらい分かりますわ。バーには美しい女性が揃《そろ》って居りますものね」
「色気だけが目的ってものでもないでしょう。まあ、適度に飲んで女の子と馬鹿《ばか》を言って、開放感を味わう。そんな所かな。実を言うと僕もよくわからないんですよ」
菊四が照れた笑い方をしたので八千代は機嫌を直した。
「でも、辛い事や口惜《くや》しいこと、淋《さび》しいことなんか、心に重荷のあるような時はバーにでも行ってお酒が飲めたらと思うことがありますわ。男の方もそうでしょう」
「ありますね。それは……」
菊四は思い出したという顔になった。
「ほら、茜ますみさんの所の内弟子の五郎君、彼の飲み方なんかまさにそのタイプですよ」 浜八千代はさりげなく中村菊四の口許を注視した。
彼の口から茜ますみの内弟子である高山五郎の名が出るのはもう数回にもなろうか。
中村菊四が五郎に対してなんらかの関心を持っていることは疑いないようだ。
「五郎さんとはよく御一緒にお飲みになるんですの」
八千代の問いに菊四は笑った。
「いや、そうじゃないんですよ。別に飲み友達というわけじゃありませんがね。それゃまあ、茜ますみさんの所の内弟子さんだし、稽古場《けいこば》で顔を合わせれば話ぐらいはします。しかし、友達づき合いのしにくい奴《やつ》ですよ。彼は……、内弟子のくせに、と言ってはなんだけど、万事にお高くとまってるようでね。苦手ですよ。ああいうしんねりした男は……」
中村菊四は大げさに眉《まゆ》をしかめた。五郎をしんねりした男と評した菊四自身、あんまりからっとした性質でもないのに、と八千代は可笑《おか》しかった。
「でも、お友達でないにしては、五郎さんのこと、随分おくわしいじゃありませんか。ご一緒に飲んだ事もないのに、どうして五郎さんの飲みっぷりなんかがおわかりになりますの……」
「それはね。彼の行きつけのバーへ僕もよく行くんですよ。勿論《もちろん》、僕の方は大抵、つき合いで仕方なくという恰好《かつこう》なんでね。大体、僕はバーみたいな場所の雰囲気が好きじゃないんです。能条寛君みたいに女の子に取り巻かれて遊ぶのが上手《うま》い男ならバーも又、たのしからずやという事になるでしょうがね。彼のバー遊びは見事ですよ。女の子を楽しませて喜んでいる。だからバーなんかの女の子はもともと映画俳優というタイプにはよわいのが多いですからね。適当に遊んで適当に別れる。近頃《ちかごろ》の女は割り切ってますから、男の方がドライにやる気になれば結構、面白いことも出来ますよ」
菊四は横眼で八千代の表情を窺《うかが》った。それと知って、八千代は故意にその話を無視した。菊四の口から寛の陰口など聞きたくもない。
「五郎さんって、お稽古場《けいこば》では無口で真面目《まじめ》で純情そうだけれど、バーへなんか出かけるんですの」
「彼は相当な猫かぶりですよ。酒はかなり強いですね。それも陰気な酒でね。飲む程に、酔うほどに蒼《あお》くなる。ニヒリストを気取ってるのかも知れませんがね」
「いつも一人なんですの。女の人かなんかと一緒かしら、それとも……」
「一人ですよ。黙々と飲み、黙々と酔う奴《やつ》なんだが、それがね、ここんところすごく悪酔いするらしいんですよ。そのバーの、名前はアザミっていう店なんですが、そこのマダムが言ってましたよ。五郎さんって今に自殺でもやらかすんじゃないかって……」
「五郎さんが自殺をするんですって。どうしてそんな……」
八千代は驚いて言った。
「自殺をするかも知れない。いや、自殺でもしそうな感じだとマダムは言うんです」
「理由はなに……」
「別になにもないんですがね。そんな感じがするって話ですよ」
「理由もなしに、そんな無責任な事をおっしゃるものじゃありませんわ。少なくとも人の生死の問題を、そんな風に……軽はずみというものですわね」
なじるように八千代は菊四へ言い、窓へ視線を避けた。五郎へ好意的な八千代の言動に気がついて菊四は躍起になった。八千代が少しでも関心を持っているような男性は、とことんまでやっつけなければ気のすまない菊四である。他人の悪口を言うのが苦にならない、むしろ趣味みたいな男である。
タクシーは宮城の堀ぎわを大手門から竹橋へ向かって走っていた。
夕暮れの堀端を肩をもたせ合ってゆっくりと散歩しているアベックが多い。季節としても夕暮れが美しい今日この頃《ごろ》なのである。
「八千代さんの前だが、アザミのバーのマダムの言うのもまんざらの軽はずみとも思えない節があるんですよ。たしかに近頃の五郎君の様子は可笑《おか》しいんだ。この間も赤坂ん所で会ったんだが、なにかしきりに考え込んでいるふうでね。すれちがって、声をかけてもぼんやりしてるし、稽古場《けいこば》でもそわそわと落ち着かない。バーでの飲み方も無茶だし、酔うと気狂いじみた目で壁をにらんでいる事もあるし、あれはなにか心に堪え切れないような重荷があるんじゃないかな」
「そりゃあ人間ですもの。時には悩みもするでしょうし、苦しみをお酒にまぎらわそうとするかも知れないじゃないの」
八千代はつとめて菊四の意に逆らって五郎の肩をもった。そのほうが菊四から話を引き出し易い。
「まあ、もう少し僕の話を聞きなさいよ。五郎君がなにを苦しんでいるのか僕には大体、想像がついてるんだよ」
「なんだとおっしゃるの。五郎さんの悩みごとは……」
「なんだと思います。八千代さんは……」
自信たっぷりに菊四は言った。
「失恋かしら。そんな所でしょう。どうせ」
「と思うのが素人《しろうと》のなんとかでね。事件の発端は例の小早川さんの殺されたあたりに関係していると言ったら、八千代さんはどう思います……」
「さあ私にはわからないわ」
正面から見つめられて、八千代は視線を落とした。その時、タクシーは神田の町へ入った。菊四がタクシーを止めたのは狭い路地の入口だった。
神田の町と言ったら、八千代は学生時代にマロングラッセという栗《くり》を加工した特殊なお菓子を食べる目的で通ったHという喫茶店と本屋の並んでいる通りぐらいしか知らない。
菊四に導かれてはいった路地の奥は、神田にこんな所があったとまるで想像もしないような小ぢんまりした軒並だった。
「みずがき」と仮名文字の門灯が出ている傍に小さく「割烹《かつぽう》旅館」と書いてあった。
「旅館」という文字に八千代は逡巡《しゆんじゆん》した。菊四が微笑して言った。
「僕の親父《おやじ》の懇意にしていた店なんですよ。板前が関西からきた奴《やつ》でね。若い僕らには味が淡白すぎるかも知れませんがね」
さあと肩を押されて八千代は玄関を入った。入口の感じは料理屋であった。落ち着いてもいる。旅館の雰囲気はどこにもなかった。八千代は少し安心した。
「まあ、菊四坊ちゃま、お久しぶり、随分とお見限りでしたのね」
出迎えた女中は四十がらみで、地味な和服だが着こなしがくずれた感じである。言葉の調子と菊四を迎える身ごなしで、八千代は昔、花柳界にいたことのある女ではないかと思った。
「どうもね。ずっと忙しかったもんだから、鮎《あゆ》は解禁になったんだろう。せいぜいたっぷり御馳走《ごちそう》になりたいね」
菊四と女との問答は割烹《かつぽう》店へきた客が女中と話をするようなものでしかない。
「あ、そうそう、こちらのお嬢さんはね。銀座の一流割烹店の娘さんだから、今日の料理はよくよく吟味《ぎんみ》するように板前さんに言っとくれよ」
「はいはい、承知致しました」
女中が案内したのは奥まった六畳だった。庭も猫の額ほどだが泉水をあしらっている。
玄関は狭いのに内は思いの他、広いようだ。
「妙な造りだろう。まるでウナギの寝床《ねどこ》みたいに細長く、奥が広いんですよ」
丸いテーブルの前に坐《すわ》って、菊四はおしぼりのタオルで顔を拭《ふ》いた。
「失礼していいですか」
白の上着を脱ぎ、黒のワイシャツの一番上のボタンをはずした。
女中がビールとつまみものを運んでくる。次々と料理も出た。川魚専門というだけあって品数も揃《そろ》っているし、洒落《しやれ》たものがある。
「八千代さんも一杯くらい大丈夫ですよ」
菊四と女中が交替に勧めて、八千代もビールのコップを持った。
「ねえ、さっきの話、聞かせてよ。五郎さんの憂鬱《ゆううつ》が、小早川先生の事件とどうつながりがあるって言うの」
女中が席をはずした隙《すき》に漸《ようや》く八千代はタクシーの中の話の続きを菊四へうながした。それが聞きたいばかりについてきた割烹《かつぽう》店なのである。
「そうそう、その話ね」
菊四は鯉のあらいを食べていた箸《はし》の手を止めて、ナフキンで軽く口を拭《ぬぐ》った。
「八千代さん、聞きたいと思うの」
焦《じ》らし声が甘かった。女形の声である。
「そりゃあ聞きたいわ。でもね。菊四さん、誤解しないでね。いつかあなたは、私がM新聞に勤めている結城《ゆうき》の伯父《おじ》様の依頼を受けて小早川先生の事件の情報集めをしているのではないかとおっしゃったけど、それはまるっきり根も葉もないことよ。第一、私は女探偵でもないし、私のような小娘の集めたネタなんぞ結城の伯父様が期待する筈《はず》がないのよ。私は私自身の好奇心で、あの事件に関することを知りたがっているんだわ」
「わかりましたよ」
菊四はうなずいた。
「それじゃお話しましょう。しかし……ただじゃ嫌だな」
悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「ただじゃ嫌って言うと……」
反射的に八千代は身体を固くする。
「今度の、茜ますみさんの温習《おさらい》会ね。あれに僕と一緒に踊ってくれませんか」
案外な菊四の申し出であった。八千代は緊張を解いた。
「今度の温習会にねえ……」
「薗八節《そのはちぶし》で�鳥辺山心中�を踊りたいんです。どうです。つき合ってくれませんか」
「鳥辺山を……」
八千代は流石《さすが》に驚いた。鳥辺山心中はいわゆる道行物と呼ばれている男女の踊りの中でもラブシーンの多い、殊に茜流では相当、ねばっこい振付がしてある。
それと、この踊りには茜流だけに通じるジンクスがあった。相思相愛の男女が「鳥辺山心中」を踊るとハッピーエンドで結婚出来るが、もし他に恋人のある女性、もしくは男性が恋人以外の相手とこの「鳥辺山心中」を踊ると、必ずその恋人との仲が冷たくなる。いわゆる失恋する踊りだといわれているのである。
迷信と言ってしまえばそれまでだが、実際茜流の門下生で鳥辺山を踊った以後、恋人に死別した例などが大げさにさわがれている。
茜ますみと古くから交際があり、いわゆる梨園《りえん》の御曹子《おんぞうし》である中村菊四が茜流のジンクスを知らないわけはない。
「ねえ、八千代ちゃん、踊ってくれないか」
菊四は親しげに追求する。八千代は途方に暮れた。
「八千代ちゃんが踊ってくれなけりゃ、僕も五郎君の一件は話さないよ。うっかり話して変なかかわり合いになってもつまらないし、ねえ、八千代ちゃん、どうなのさ。それとも鳥辺山を踊ったらマズイような恋人でもあるのかい」
テーブルの向うから顔を差しのぞかれて八千代は首をふった。
「そうじゃあないけれど……」
返事に窮して浜八千代は、立ち上がると縁側の障子を開いた。
離れ座敷の作りだから座敷の二面が庭へ向かっている。一方は最初に部屋へ入って来たときから開いていたが、こっちの方の障子は思わせぶりに閉まっていたものだ。
水のあるかないかの泉水が見え、笹の植込みのかげに遅れ咲きの躑躅《つつじ》が残っていた。
誘蛾灯《ゆうがとう》が一つ、ぽつんと光っている。まだ盛夏ではないから群がる虫も少ないらしく、小さな蛾が一羽、まつわりついているのが見える。せまい場所に作られた料理屋なのに、冷房装置も部屋部屋に備えつけてあるから、存外に暑さを感じさせない。
八千代はぼんやりと誘蛾灯を見ていた。
「ねえ、八千代ちゃん、いいだろう。鳥辺山を踊ること……」
再度、菊四がうながした時、八千代はしょうことなしにうなずいてしまった。
「いいのね。踊ってくれるんですね」
菊四の声は明らかにはしゃいでいた。
「ええ、いいわ」
八千代はちらと瞼《まぶた》の上をかすめた能条寛の面影をふりはらうように重ねて答えた。
声に出して承諾してしまうと、八千代の心に一種の投げやりめいたものが湧《わ》いた。
女中が新しく酒を運んで来たので八千代は席へ戻った。
「さあ、新しいのをどうぞ、よろしければ洋酒も用意してございますのよ。お持ちしましょうか」
八千代が答える前に菊四が言った。
「ウイスキーはなにがあるのさ」
「さあ、なんでございましょう。どうせよいもんじゃございませんでしょうけれど……」
「ま、いいや、持って来てくれないか。どうも日本酒はベタついてね」
「左様でございますね。お若い方にはウイスキーなどのほうが……」
女中は立って行くとサントリーの角瓶を持って来た。その横に見馴《みな》れない洋酒の派手なレッテルを貼《は》った瓶も持っている。
「お嬢さまには甘いほうがよろしいかと思いまして……」
カットグラスに注いで勧めた。八千代が口をつけてみると、とろりと甘い。リキュールらしかった。口あたりがよく、アルコールであることをつい忘れさせる。
「ねえ、菊四さん、なによ、五郎さんと小早川先生との事で、あなたが目撃したって話は……もう話して下さらなくちゃずるいわ」
女中が去ってから、八千代は訊《たず》ねた。
「話しますよ」
菊四はウイスキーをグラスに注ぎ、一口飲んでコップの水を喉《のど》へ流すと声をひそめた。
「実は、小早川先生が横浜のGホテルで殺された夜の事なんですがね。僕は芝居の千秋楽の翌日で一ん日、アパートで疲れ休めをしていたんですよ」
その日、中村菊四は一日の大半をベッドで暮らし、夕方になってから起き出した。腹が減っていたが食事に外出するのも大儀で、電話で寿司を頼んだ。
丁度、時分どきらしく注文が混んでいて配達が遅れた。
寿司屋の小憎がやって来たのが七時ごろ、それから気がついて台所で湯をわかした。
「男やもめなんて不自由なものでしてね。自分が体を動かさなければお茶一杯のめもしないんですよ」
菊四は相手の気を引くような笑い方をして話を続けた。
「湯が沸くのを待つ間、所在がないもんで、窓から外を覗《のぞ》いていたんです。僕のアパートの部屋は台所の窓だけから東京の夜景が見える。他の窓はビルと向かい合ってるもんですからね。反対側の部屋を借りてる連中は赤坂の表通りへ窓が面しているから、そんな事はない。その点、僕の部屋は割が悪いが、別に一日中部屋にいるわけじゃないからね」
眺めのよし悪しなどはなんの関係もないのだと、菊四は自分の部屋を弁解した。
その菊四の部屋の台所の窓はちょうど茜ますみの家の裏木戸の真上になっていた。
木戸を開けて人が出て来たので菊四は注目した。
「正直言うと、もし稽古《けいこ》帰りの八千代ちゃんにでもあえたらいいと思ったんですが……」
出て来たのは内弟子の高山五郎だった。
なにか、ひどくせかせかした歩きっぷりだと見ていると、木戸からもう一人が彼を追って来た。今度は女だった。あじさいの模様の浴衣《ゆかた》に黄色い帯をしめている。
後姿なので菊四は誰だか見当がつかなかった。年頃《としごろ》の女の子などというものは大体似たりよったりの雰囲気を持っている。それに、踊りの稽古場においてはみんな着物に帯、それも夏は浴衣に統一されるから一層、判別しにくい。
女が低い声で呼び止め、男がふりむいた。菊四の覗《のぞ》いている窓からは女は後姿である。二人は顔を寄せ合うようにして二言、三言|喋《しやべ》った。女が小さなものを男に渡し男は慌ててそれをポケットへしまった。
「話し声は聞こえなかったんですの」
たまりかねて、八千代は問うた。
「全然です。僕の窓は四階だし、距離がありますからね。そうでなくても二人の喋り方はひそやかなものでしたから……」
菊四が見ているとも知らず、二人は寄り添ったまま、じっとしていた。不意に女が男を抱いた。男は素直に抱かれた。
「いいですか、八千代ちゃん、男が女を抱いたんじゃなくて、女が、なんですよ」
夜だったし、辺りに人影はなかった。不粋なタクシーのライトもこの小路までは入って来ない。
「弁解がましいようだけれど、僕は覗きの趣味はないし、人の恋路を上から眺めているのも気がひけるんで、一度は眼を逸《そ》らしたんですよ。いや、本当に……」
菊四の台詞《せりふ》にうなずいてみせながら、八千代は内心|可笑《おか》しかった。染子なら、さしずめ、
「なにさ、お体裁のいいこと言ってるわね。男で覗き趣味のない人なんかあるもんですか。あんただってさぞかしエゲツない顔をして見てたにきまってるわ」
とずけずけ言ってやるに違いないのである。
菊四は見てはならないものを、無神経に見ていた理由をこう説明した。
「一は五郎君の相手が誰《だれ》だろうかと好奇心が湧《わ》いたせいなんです。だって、八千代ちゃんも知っての通り、五郎君という男は茜《あかね》ますみさんに大層な御執心で、いわば色気で内弟子修業してる奴《やつ》でしょう。ところがあの夜、五郎君と抱き合って接吻《せつぷん》してた女は茜ますみさんじゃない。茜ますみさんなら背は高いし、体も豊満だから、いくら距離があろうと、後ろ姿だろうと僕が見違える筈《はず》はありませんからね」
「そんな言い方お止めになって……」
八千代は顔色を変えた。
「私、そんなことを菊四さんにお訊《たず》ねしたのではありませんわ。そんなお話と小早川先生の事件となんの関係もないじゃありませんの」
菊四は落ち着いて、八千代を制した。
「まあ、待って下さいよ。実はこれからが重大なんだから、物事には順というものがあるし、そうせっかちに言われてもね」
八千代の前のカットグラスにリキュールを又、注いだ。注がれれば八千代もつい、唇をつける。
「五郎君の恋の相手が茜ますみさんでなくて他の誰《だれ》かであるということ、これはまあ、どうでもいい事かも知れませんよ。しかし、その時の二人の様子というのがラブシーンを演じているくせにひどく切羽《せつぱ》つまったというか、なんかこう不気味な緊張感みたいなものがあったんです。間もなく五郎君は女と別れて走って行きました。タクシーを止めたから家へ帰ったのか、それともどこへ行ったのかわかりませんがね。女のほうは戻って木戸へ入りました」
今度は否応《いやおう》なしに菊四の覗《のぞ》いている窓の方角へ女の顔が向く筈《はず》である。
「誰《だれ》だったと思います。その女の人……」
菊四は一応、八千代の表情を窺《うかが》ってすぐに言った。
「久子さんだったんですよ。内弟子の……」
「え……?」
八千代は聞き違いかと思った。
「ほら、驚くでしょう。あの謹厳そのものみたいな久子さんが五郎君の相手らしいんですよ。見間違いじゃありません。僕は近視でも乱視でも、いわんや老眼には間がありますからね」
久子が五郎と恋をする。
八千代の常識では考えられない事だ。八千代だけではなく、おそらく茜ますみ門下の誰《だれ》しもが同様だろう。内弟子同士の男女なら、恋愛関係となるのも芸能界にはままある事であった。にもかかわらず、久子と五郎には全く不自然な感じがする。
「信じられないわ。私には……」
「そうでしょう。僕だって茫然《ぼうぜん》としちまった。けど、仮に僕のその目撃だけだったら、五郎君と久子さんの仲というのは決定的じゃないかも知れない。世の中には誤解ということもあるし……ところが、その続きがまだあるんですよ。その晩、遅くなって僕の部屋へ来客がありました。贔屓《ひいき》の人なんですがね。存外の長っ尻《ちり》で、漸《ようや》くおみこしをあげたのが十一時近くでしてね……」
菊四はつとめてさりげなくその客が男性であるような話ぶりをしていたが、八千代は直感的に女だと悟った。菊四にキャデラックをプレゼントしたパトロンという女ででもあろうか。とにかくそんな詮索《せんさく》は八千代にとって無用のことだ。菊四にどんな女出入りがあろうと八千代の知った事ではない。
「客が帰ってしまってから台所へ水を呑《の》みに行ったんです。窓が開けっ放しになっている。閉めようと思って、ひょいと見ると茜ますみさんの裏木戸の所に男がつぐんでいる。泥棒かと思ったんですよ。最初は……ところが男の顔を見ると五郎君なんでね」
菊四は舞台人らしくジェスチュアまじりに説明した。
「もっとも五郎君なら茜ますみさんの内弟子だし、夜中に急な用事があってやって来たと考えるのも可笑《おか》しくはない。ところがですよ。八千代ちゃん、裏木戸から出て来たのが久子さんでね。二人が顔を見合わせたと思ったら、まるでお染久松《そめひさまつ》みたいな所作で走り寄って抱き合ってさ。それから凄《すご》いラブシーンを演じたんです。フランス映画そこのけでね。見ている僕のほうが心臓がドキドキしちまいましたよ」
「嫌な方ね。他人の恋路を覗《のぞ》き見するなんて最低の趣昧だわ」
八千代は眉《まゆ》をしかめた。菊四の喋《しやべ》っている表情の下品さにはがまんがならない。こんな馬鹿《ばか》げた話を聞くために、のこのこついて来た自分が次第に後悔された。
菊四はそんな八千代の表情にはまるで無頓着《むとんちやく》のように、しきりとウイスキーを乾《ほ》した。かなり強い性質《たち》らしく、額が蒼白《あおじろ》くなった程度のことで酔いはどこにも見せていない。
「八千代ちゃんはみかけによらず気短なんですね。ま、もう少し御辛抱を願いましょうか。とにかく暗がりの凄いラブシーンがすんだあと、男が帰りかけ、思い出したように戻って、なにか久子さんに渡そうとしたんですよ」
手もとが狂って品物は地上に落ちた。カチャリと冷めたい金属の音がした。
地上へ落ちた一個の品へ男女は慌しく手をのばした。
「なんだろうと思って僕も窓から覗《のぞ》いてみたんです」
街灯の光にキラと光ったのは細長い小さな金属であった。
「僕は、それが鍵《かぎ》じゃないかと思ったんですよ」
「鍵?」
「そうです。鍵、それも車の鍵じゃなかったかと……ね」
テーブルの上に菊四は身をのり出すようにして八千代をみつめた。
「小早川喬は自分の車に轢《ひ》かれて死んだんでしたね。その車、オースチンは彼がGホテルの駐車場へ入れて鍵をかけた筈《はず》だ。その鍵は彼のポケットにある。小早川喬を轢き殺した犯人は、どうやってオースチンを駐車場から出し、運転したというのだろう、とこれは新聞でも週刊誌でも随分、問題になっていましたね。推理作家なんかが登場してそれぞれに意見も述べていた。所で車はどこにも異常がない。外部から手を加えて鍵なしで車を運転する方法なんかもいろいろと言われていたが、とにかくそう言った形跡はまるでない」
菊四は自信たっぷりに微笑した。
「八千代ちゃん、僕は犯人はやっぱり鍵を使って車を操作したのだと思いますよ。それは小早川喬が握って死んでいた鍵ではなく、もう一つの、茜ますみさんがあずかっていたほうの奴《やつ》ですよ」
「でも、それは、ますみ先生が赤坂のお宅の手文庫の中へ入れて……」
言いかけて八千代は絶句した。中村菊四の言おうとしていることが、急にある形となって彼女の脳裡《のうり》に浮かんだものだ。
「鍵《かぎ》は一人じゃ羽でも生えない限り、横浜くんだりまで行きゃしない。けど、それを運ぶ人間があったら……」
「すると菊四さんは……小早川先生を殺した犯人が五郎さんだと……」
まじまじと八千代は菊四をみつめた。
「そうは勿論《もちろん》、断定出来ませんよ。僕のは一つの推理だけだから……でもね、八千代ちゃん、五郎君がバーでめちゃめちゃに酒をのんだり、妙に沈み込んだりするのは、小早川喬の殺人事件以後の現象なんですよ」
喋《しやべ》りながら菊四はさりげなく位置を移動して八千代に接近した。うつむいて思案している八千代にそれは気づかれないで済んだ。
八千代が或《あ》る気配で、はっと顔を上げたとき、目の前にいきなり菊四の顔が拡がった。
菊四の腕が伸びて八千代を捕らえた。
「なにをなさるの、菊四さん、お放しなさいったら……」
ふりはなそうとしたが男の力である。八千代は自分の声が上ずっているのを感じた。思いがけないほど呼吸もはずんでいる。
八千代が抵抗しながら叫んだので、菊四は右手をのばして彼女の口許をおさえた。もっとも、もともとがそういう性質の家だし、平常から女中たちにも御祝儀をはずんでおくから、ちっとやそっと女の声が聞こえたとしても、誰《だれ》も不粋に部屋の戸を開けたりなんぞはしないし、はなれの造りだから周囲にそれ程の気がねもいらない。がやはり騒がれすぎては菊四としては恰好《かつこう》が悪いのだ。
八千代は遠慮なく、もがいた。必死であった。
「卑怯《ひきよう》だわ。大事な話があるなんておっしゃって、こんな所へ連れ出して……私を欺《だま》そうとしたのね」
「そうじゃありません。あなたのような人を欺すなんて……」
菊四は無器用に言いわけした。彼はこれまで本気で女を口説いた事がなかった。花柳界の女性や、ファンのマダム連中など今まで菊四がつき合って来た女たちは全て向こうから仕かけた恋であり、もち込まれた浮気であった。
八千代の場合は菊四にしても例外だった。ずぶのお嬢さんだと相手を思うことで、菊四のような芸界の男性はなんとなく戸惑《とまど》うしためらいも出る。
それにしても菊四は八千代が好きだった。正確に言うと、かなり以前から深い関心を持っていた女だった。そういう彼の意識の奥には子供の頃《ころ》から始まった能条寛へ対する対抗的なものが潜在していて、それが八千代への好意に変形したのかも知れなかった。能条寛と親しい女性、というだけで彼は八千代へのライバルの立場へ自らを置いた。いわば歪《ゆが》んだ愛情であり、欲望である。が、菊四自身は正しくそうであるとは勿論《もちろん》、思ってもみない。
八千代がもがけばもがくほど、菊四の体には火がついた。手にも力が加わってくる。
男の熱っぽい息が正面から襲いかかったとき、八千代は最後の知恵をふるい起こした。
「待って、痛いわ。みっともないわ。そんな恰好《かつこう》なすって……」
なじるような強い調子ではなくむしろやんわりと言ったのが、お体裁屋の菊四にはひどくこたえた。ふっと、腕の力が弱まる。
八千代はハンドバッグとコートを掴《つか》むひまもないままに、体一つを危うく菊四の手から抜いて立ち上がったが、追いすがった菊四を力まかせに突く。はずみで菊四の体は隣の部屋との間の襖《ふすま》にぶつかった。襖がはずれ、その隙間《すきま》から夜の仕度が出来ている隣室が覗《のぞ》けたが、八千代は眼のすみにそれらの布団やスタンドなどをちらと入れただけで、脱兎《だつと》のように庭へとび下りた。その縁側へ逃げ上がる以外に道はなかった。八千代は夢中で灯りの洩《も》れているその離れ座敷へふみ込んだ。
そこに一人の紳士が酒を呑《の》んでいた。
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