みちたちが、真直ぐ函館から小樽へ行くだろうと計算したのは、雄一郎の早計だった。
「そろそろ列車の出発する時間ですので……」
いつまでも、駅の食堂でぐずぐずしているみちをうながすと、
「おや、私どもでしたら、この先の湯《ゆ》ノ川《かわ》温泉へ宿をとってございますのよ」
逆に、怪訝《けげん》そうな顔をされてしまった。
「すると、まっすぐ小樽へはおいでにならないんですか……?」
「勿論ですわ、ふだん、あらくれた仕事をしているわけじゃございませんのでね……。一息に又、列車を乗り継ぐなんて、とてもとても……体がたまりませんよ」
「はあ……」
雄一郎は、かえす言葉もなかった。
「それでは、宿のほうへごいっしょして下さるんじゃございませんの、折角ですから、函館見物をごいっしょにと思っておりましたのよ」
「お母さま、ご迷惑よ……」
有里が堪《たま》りかねて言った。
「室伏さん、お仕事を持っていらっしゃるんですもの……」
「おやそうかい、だけど私は別に無理にと申し上げているわけじゃありませんよ」
みちは平然としていた。
「須賀利《すがり》の室伏さんには言っといたんだから、当然こちらへも連絡してあると思ってたんですよ」
「わかりました。ご一緒いたします」
それまで黙っていた千枝がいきなり言った。
「千枝……」
雄一郎は、狼狽《ろうばい》した。
「お前、そんなこと……」
彼が慌てたのは、仕事がいそがしいというより、財布の中味が乏しかったからだ。まさか湯ノ川の旅館に泊るなどとは、夢にも思わなかったのだ。
(千枝の馬鹿野郎……)
雄一郎は千枝をにらみつけた。
しかし、千枝はすましている。
「兄ちゃん、ちょっと……」
雄一郎をうながして、店の外へ出て行った。
「千枝……お前、あんなこと言ってしまって、いったいどうする気だ……」
外へ出てから、雄一郎は千枝を怒鳴りつけた。
「だって、兄ちゃんの休み、あと二日間あるんでしょう……あたいも大丈夫だよ」
「馬鹿、湯ノ川温泉へ泊るとなれば、只《ただ》じゃすまないんだぞ、そんな金の用意して来てやしないんだ」
「へ……、お金ならあるよ」
「なに……?」
雄一郎は眼をむいた。
「どこに……?」
「出がけにね、姉ちゃんが渡してくれたの……」
千枝は手提げの中から財布を引っ張り出した。
「むこうさんがひょっとすると函館見物をとおっしゃるかも知れないから、その時はこのお金を使うようにって……姉ちゃんて、なんでもお見通しなんだよね」
そばに人の居ないのをたしかめて、
「兄ちゃん、これで恥かかなくって済むよ……」
小声で言った。
「貧乏人だからって、馬鹿にされてたまるもんか……」
千枝も、みちには腹を立てていたのだ。
雄一郎は、千枝に手渡された財布を無言で握りしめた。
(姉さん、ありがとう……)
胸の中で、そっと呟《つぶや》いた。
湯ノ川温泉は函館の郊外にある静かな温泉地だった。
北海道では、もっとも早く、約三百年前に発見されたといわれている。
雄一郎は千枝と共に、中里家の一行を、この温泉地でも一流の宿へ案内した。
無論、部屋は別だった。
しかし、夜の食事は当然一緒にするものと考えて、雄一郎と千枝は温泉にも入らず、着換えもせずに、向うから声をかけてくれるのを待っていた。が、中里家の部屋からはなんの音沙汰《おとさた》もない。
「おなか、すいたねえ、兄ちゃん……中里さん、なにしてるんだろうねえ」
夕食をたのしみにしていた千枝が、まず弱音をはいた。
「お前だけ先に食ったらどうだ」
「いいよ、待つよ、一人だけ先に食べたら失礼だもの……」
普段食いしんぼうで有名な千枝が、空腹をこらえて、廊下の足音に耳をすませている様子が、雄一郎はいじらしかった。
時計が九時を回るころ、廊下に足音がした。
「あ、来たよ、来たよ、兄ちゃん」
「うん……」
雄一郎の腹も、さっきから空腹のため鳴りっぱなしだった。
「おや、こちらのお客さん、まだ、お食事なさらんかったのかね」
襖《ふすま》を開けた女中が、呆《あき》れたような顔をした。
「どうして、まあ、今ごろまで……」
「実は、あちらの連れと一緒にするつもりなんだが、むこうは何をしてるかな」
「あちらの、鈴蘭《すずらん》のお客さんなら、もう、とっくにお食事すませて、休んでなさるよ」
「なにッ……?」
「はあ……、ひどく疲れたとおっしゃって、あんまさん呼んでなあ」
雄一郎と千枝は顔を見合せた。
あまり馬鹿馬鹿しくって、怒る気にもなれなかった。
「兄ちゃん、じゃ、早く御飯にしようよ」
「うん、では、こっちも御飯にして下さい、腹がぺこぺこなんだ」
「へえ、きっと御飯もお汁も冷めてしまったべなあ……」
女中は気の毒そうに言って、出て行った。
女中が襖を閉めるやいなや、
「兄ちゃん……」
千枝が泣きそうな顔で雄一郎を見た。
いままで我慢していたものが、急に堰《せき》を切ってあふれだしたのだ。
「千枝……」
雄一郎の胸も熱くなった。
「千枝、飯くったら夜行で小樽へ帰ろう……」
「でも、そんなことしたら、兄ちゃん……」
「いや、紀州の伯父《おじ》さんの顔をつぶすまいと我慢してきたが、もう嫌だ……もう、真ッ平だ……」
「中里さんたちはどうするの?」
「そんなこと、知るもんか、自分たちこそ勝手な真似ばかりしてきたんじゃないか」
雄一郎は、ちらと有里のことを考えた。折角逢えたばかりなのに、こんな別れかたをするのは残念だが、
(仕方がない……)
と、思った。
有里にもやっぱり中里家の血が流れている。彼女だけは、みちや弘子とは違うと勝手に想像していたが、その期待は見事に裏切られた。たとえ、そうではなかったとしても、あの母親の許《もと》では、所詮《しよせん》、雄一郎とは別の世界の人間だった。
(そのことに早く気がついただけでも、仕合せだった……)
雄一郎は、強いて、そう自分に思い込ませた。
(いまのうちなら、彼女の嫌な面を見ないでもすむ……)
だから、廊下の外で、
「ごめんください……」
有里の声がしたとき、雄一郎は咄嗟《とつさ》に返事が出来なかった。
逢いたい気持と、逢いたくない気持が相半ばしていた。
「中里でございますが……ちょっとお邪魔してもよろしいでしょうか……」
「兄ちゃん……」
千枝にせかされ、雄一郎はようやく畳から起き上り、
「どうぞ……」
と応えた。
襖が開いて、有里が遠慮がちに入って来た。
「もうおやすみかと思ったのですけれど……一言だけ、お詫《わ》びが申し上げたくて……」
「お詫び……?」
「本当にごめんなさい……私どもの勝手ばかり申しまして、さぞかし、お気を悪くなさったと思うんです。あなたがお仕事をお持ちだと分っていながら、こんな……」
有里は消え入りそうな様子で言った。
実際は、東京から此処《ここ》へ来る途中で、青森の浅虫《あさむし》温泉へ泊っているが、そこでも、みちは室伏家のことを無視して、予定より二、三日余計に滞在しそうな形勢だった。
有里は一計を案じ、その晩たのんだ按摩《あんま》にチップをはずんで、その旅館にまつわる怪談ばなしをしてもらい、臆病《おくびよう》なみちを早々に出立させたのだった。
室伏家のことを全く眼中におかない、母と姉にかわって、有里が一人で気を遣い、どうやら函館までやって来た。
しかし、着いたとたんにこの始末で、今度は有里が間に立つ余裕もなかったのである。
有里は、みちや弘子の我儘《わがまま》については雄一郎に何も言わなかった。みちも弘子も、彼女にとっては大事な母であり、姉だった。
だからこそ、母や姉のために、一人でそっと非礼を詫びに来たのである。
「なにしろ、道中が長かったものですから、母が疲れておりまして……」
ちょうどそこへ、女中が夕食の膳《ぜん》を運んで来た。
「やっぱり汁がさめてしもうたがね……」
がたびしと、雄一郎と千枝の前に膳を置いた。
「あの……今頃、お食事……?」
有里が不審そうな顔をした。
雄一郎と千枝は、何んと答えたものか、互に顔を見合せた。
「お客さんはね、ずっと、あんたがたと食事をするつもりで待っておいでたんよ」
女中がかわりに答えた。
「じゃ、ごゆっくり……」
女中が去ると、
「ごめんなさい……」
有里が、突然、両手を顔に当てた。
「ごめんなさい、私が馬鹿だったんです……」
あとの言葉は声にならなかった。
「お嬢さん、泣かんといて……ねえ、お嬢さん……」
千枝が驚いて、有里のそばへ駈《か》け寄った。
「ちっとも気がつかなくて……ぼんやり者だから……ごめんなさい……」
有里は小きざみに肩をふるわせた。
いろいろなものが、一度に胸にこみあげてきた。ただ、無性に有里は哀《かな》しかった。
「いいんですよ……」
雄一郎がようやく口をひらいた。
「僕たちも気がつかなかったんです。もっとちゃんと連絡すればよかったのに……へんに遠慮したのがいけなかったんです。どうぞ、もう、気にしないでください」
「そうよ、お嬢さんが悪いんじゃないわ、私たちが早のみこみしたのがいけないのよ、……だから、ね……」
千枝も有里の肩に手をかけて、やさしく言った。
「もう泣かんで……ね、お嬢さんが泣いとると、私、ごはん食べられんもん……」
「そうですよ、僕たちいまにもぶっ倒れそうなんだ……」
雄一郎がおどけた調子で言った。
「はい……」
有里が泣き笑いの顔をあげた。
「じゃ、私、お給仕しますわ」
「いいよ、お嬢さんにそんなことさせられんよ」
千枝が制したが、それより早く有里は立ってしゃもじを取った。
「お嬢さんなんて言わないで……、私、有里っていうんです、はい、どうぞ……」
茶碗《ちやわん》を雄一郎へさし出した。
「すみません……」
雄一郎は礼を言って箸《はし》をとった。
(やっぱり俺の思ったとおりの娘さんだった……)
汁は冷めていたが、雄一郎の胸の中は、満足感で温くふくらんでいた。
千枝も雄一郎も、遠慮なく、何度も有里におかわりを頼んだ。
そのたびに有里も、いそいそと茶碗に飯をよそった。