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ふとしたことで、人身売買業者の手から雄一郎が救い出すことになってしまった娘の名は中田加代といい、年は十八だった。
雄一郎は加代を家へ連れて帰った。
厚岸《あつけし》にある両親の許へ帰れば、貧しい小作人で、家中が粥《かゆ》もろくにすすれないという生活状態なので、又、売られてしまうことは確実である。
雄一郎は加代のために、釧路で働き口をさがしてやらねばならなかった。しかし、どこもここも不景気風の吹きまくる御時世ではおいそれと職も見つからなかった。
加代は口数の少い、おとなしい子だったが、よく気がついて、すすんで家事を手伝ったり秀夫のお守りをしたりする。
有里もそんな加代をいじらしがって、自分の着物を与えたり、なにかにつけて面倒をみてやった。
家へ来て半月目に、隣りの岡井よし子が、釧路で一膳飯屋《いちぜんめしや》をしている店で下働きを欲しがっているという話を持って来てくれた。
客相手の商売では、と雄一郎も有里も案じたが、加代は自分からのぞんで、その店に住み込むことになった。
加代の器量が比較的良いことも、この場合先方の気に入られ、思ったより早く就職することが出来たのである。
加代の身許引受人になっている立場からも、雄一郎はなにかにつけて、一膳飯屋へ加代の様子を見に行った。
店が港に近いため、立ち寄る客も船員とか荷揚げ人足などが割合多い。そんな連中にもまれるせいか、加代は日がたつにつれ、みるみる女っぽさを増して行った。
その夜も、雄一郎は勤めの帰りに加代の居る店へ寄った。
風邪でもひいたのか、ちょっと寒けがするので熱燗《あつかん》と柳葉魚《ししやも》の焼いたの、それに豚汁《とんじる》を註文した。柳葉魚は特に釧路の名物で味も良い。アイヌ人たちが神の木とあがめる柳の葉が、水中に落ちて魚になったという伝説の美しい魚だった。
近頃、雄一郎の顔を見ると、加代がひどく嬉しそうな表情をする。時には妙に上気していることもある。それでも雄一郎は、一向に加代の気持の変化に気がつかなかった。
彼を見て嬉しそうにするのは、ようやく仕事に馴《な》れて来たせいだと思っていた。
加代が註文の酒を運んで来た。
「お待ちどおさま……」
酌をしようとするのを、
「いいよ、手酌でするから……」
そう言って、彼女の手から銚子《ちようし》を取った。
「奥さんでなくてすみません」
加代が嫉妬《しつと》するような眼つきをしたので雄一郎は吃驚《びつくり》した。
「なんだ、お前……」
まじまじと加代の顔を見た。
「いったい、いつ、そんな台詞《せりふ》をおぼえたんだ……」
「いやーダ……」
恥かしそうに顔をかくしたその仕草が、また、ばかに女っぽい色気がある。
「おたまじゃくしだっていつか蛙《かえる》になるでしょう……私だっていつまでも子供じゃいませんよ」
「うん、それもそうだ……」
雄一郎は言葉を失って、口をつぐんだ。
「お酒、もう一本持って来ましょうか?」
「うん、そうしてくれ……」
調理場の方へ行く加代の後姿を眺めながら、雄一郎はこの娘の将来のことが急に心配になりだした。
雄一郎は、ふと、いつか三千代のことを訪ねて行った、東京|池之端《いけのはた》の『みゆき』という小料理屋のことを思い出した。
あの時、三千代と思って訪ねた相手は、まったくの別人だった。
しかし、あの時出て来た女の年齢といい、態度といい、雄一郎にはどうも納得の行かない節があって、その後、東京の関根重彦に一度探ってみて欲しいと手紙で頼んでおいた。
関根は今、東鉄の旅客掛長をしているらしい。
鉄道の大きな流れの中心で働いている関根と、地方の末端に蠢《うごめ》いている自分と、比較しても仕方がないとわかっていながら、今夜の雄一郎は少々わびしかった。
それでも、酒はいい加減できり上げ、食事をすませて家に帰った。
秀夫はとっくに寝てしまい、有里は奥で縫い物をしているのか、雄一郎がはいって来たことに気づかなかった。
「こら、不用心だぞ、玄関のあける音にも気がつかんようじゃ……」
「あら、ごめんなさい、ちっとも知らなかったわ……」
有里はいそいそと立って夫の着換えを手伝った。
「すぐ食事になさいます……それとも銭湯の方が先……?」
「飯はすんだ、一休みしたら風呂へ行くよ」
「あら……」
有里はちょっと表情を曇らした。
「もうすんだんですか……」
「ああ、加代ちゃんの働いている店へ様子を見に寄ったついでにすませた……」
「そうですか……」
有里は雄一郎が着物に着換え終ると、茶の間に用意しておいた食膳を片づけ、台所で一人そっと食事を始めた。
「なんだ、飯まだだったのか……」
不愉快そうな顔をして、雄一郎が言った。
「ええ、あなたと一緒にと思って……今日はお帰りが早いとばかり思っていたから……」
「なんだ、皮肉か……?」
雄一郎がじろりと有里を見た。
「いいえ、皮肉だなんて……」
驚いて夫を見上げた。
「たまに外で飯くってくるのを、一々文句いわれちゃたまらんよ、時間が来たらさっさと飯をすませてくれ……」
「はい、すみません……でも、私、別に文句なんか言ってやしませんよ」
「口で言わんでも態度に出せばおんなじことだ……」
「態度にだって出るはずがありません、そんなこと思ってもいないんですもの……」
「こんな時間に飯も食わんで待っているのは嫌味だよ」
「だって、そんな……」
しかし、有里にも夫の虫の居所が悪いことにようやく気がついた。こんな時にはそっとしておくにかぎるのだ。
有里が黙ってしまうと、
「風呂へ行ってくる……」
手拭《てぬぐい》をつかんで、ぷいと外へ出て行ってしまった。
いつまでもあとを引くことはないが、雄一郎にも時々こうしたことがあった。
ひどく疲れたときとか、仕事がうまく行かない時などである。雄一郎自身もそれは良くわかっているのだが、だからといって、その気持をすぐ処理してしまうことも出来なかった。
結局、いちばん被害を受けるのが有里だったのだ。
たった一人で、冷えきった食事をしていると、有里はふっと悲しくなった。その悲しさがだんだん濃くなってきて、やがて、声をしのんで有里は泣きだした。
そんなことがあって、二、三日した夕方だった。
有里が晩のおかずを買いに行った帰りがけ、家の近くの風呂屋の前で、有里は若い男から突然声をかけられた。
「あんた、室伏雄一郎の女房かい?」
年は二十二、三だろうか。一見して堅気な仕事をしている者でないことがわかった。
「ちょっとそこまでツキ合ってくんねえか……」
「いったい何んの用なの……」
有里は誰かに助けを求めようかどうしようかと迷いながら、あたりを見回した。
「別に用ってほどのことじゃねえんだけどよ……実は、加代って女のことであんたにちょっと話しがあるんだよ」
嫌な眼つきで、下から睨《ね》めつけるようにして言った。
男の左の頬骨《ほおぼね》から眼の下にかけて、くっきりと長い一本の傷痕《きずあと》があった。夕陽をあびて、男の傷のある顔は、ひどく凄惨《せいさん》に見えた。