あれはアメリカ側から、原爆被災者の写真を発表してよろしい、と言われた年のことだったと思います。はじめて目にする写真を手に、すぐ詩を書けと言う執行部の人も、頼まれた者も、非常な衝撃を受けていて、叩かれてネをあげるような思いで、私は求めに応えた。どういう方法でつくった、といえる手順は何もなく、言えるとすれば、そうした音をあげるものを、ひとつの機会がたたいた、木琴だかドラムだか、とにかく両方がぶつかりあって発生した言葉、であった。それがその時の空気にどのように調和し得たか。
翌朝、縦の幅一米以上、横は壁面いっぱいの白紙に筆で大きく書いてはり出されました。皆と一緒に勤め先の入口をはいった私は、高い所から自作の詩がアイサツしているのにたまげてしまいました。何よりも、詩がこういう発表形式で隣人に読まれる、という驚きでした。
ほうぼうの職場で、多かれ少なかれこうした詩の出来事があったのでしょう。私の所属する金融機関の組合連合体でアンソロジーの出版を企画し、それは『銀行員の詩集』として年一回ずつ、十回発行を重ねました。やがて組合団体の分裂がひとつの原因となって一九六〇年版で終刊となりましたが、この詩集に毎回発表したものは、他に紹介され、別に新しく書くことをたのまれる機会ともなりました。その場合、私の書いたものは働く者の詩であり、生活詩、ということになるのでした。
いま詩を書く以外に仕事を持たないで生活している人は数える程しかいないのですから、私の詩に説明が付くのはハンディキャップ、たとえば「子供の詩」と断り書きがつくのに似ているのでしょうか。それとも何か詩と違った要素があるからでしょうか。いずれにしても私は一日中働いているのであり、その立場で詩を書き進めてゆく以外、食べてゆくことも、書いてゆく手だてもないのが現実です。
翌朝、縦の幅一米以上、横は壁面いっぱいの白紙に筆で大きく書いてはり出されました。皆と一緒に勤め先の入口をはいった私は、高い所から自作の詩がアイサツしているのにたまげてしまいました。何よりも、詩がこういう発表形式で隣人に読まれる、という驚きでした。
ほうぼうの職場で、多かれ少なかれこうした詩の出来事があったのでしょう。私の所属する金融機関の組合連合体でアンソロジーの出版を企画し、それは『銀行員の詩集』として年一回ずつ、十回発行を重ねました。やがて組合団体の分裂がひとつの原因となって一九六〇年版で終刊となりましたが、この詩集に毎回発表したものは、他に紹介され、別に新しく書くことをたのまれる機会ともなりました。その場合、私の書いたものは働く者の詩であり、生活詩、ということになるのでした。
いま詩を書く以外に仕事を持たないで生活している人は数える程しかいないのですから、私の詩に説明が付くのはハンディキャップ、たとえば「子供の詩」と断り書きがつくのに似ているのでしょうか。それとも何か詩と違った要素があるからでしょうか。いずれにしても私は一日中働いているのであり、その立場で詩を書き進めてゆく以外、食べてゆくことも、書いてゆく手だてもないのが現実です。
「挨拶」が職場で書いた詩であるなら、次の詩は自宅で書いた詩、とでも言いましょうか。だから題を「表札」にしたのか、といわれると困るのですが。
職場は大手を振ってまん中を行進していた組合活動を少しずつ横に片よせ、経営が本通りをゆく、ある落着きをとり戻していました。
前の詩と、この詩の間に十年以上の月日が流れています。私の詩を書く立場は、この流れにうごかされ、大勢の中からひとりの中へと置き換えられてゆくようでした。
職場は大手を振ってまん中を行進していた組合活動を少しずつ横に片よせ、経営が本通りをゆく、ある落着きをとり戻していました。
前の詩と、この詩の間に十年以上の月日が流れています。私の詩を書く立場は、この流れにうごかされ、大勢の中からひとりの中へと置き換えられてゆくようでした。