田圃《たんぼ》のなかにある家はふつう何軒かの家と集落を作っているものだが、この家は珍しく一軒家のようだった。山の斜面にある家の近くにはほかの家は見えない。
ネズミの家だといえば小さな家を想像しそうだが、規模こそ小さいがサイズはごく普通の建物だった。建物だけでなく、家具から日用品から、ぜんぶが人間のサイズにあっているのが不思議な気が、陽子にはする。
「楽俊、ご両親は?」
ようやく起きて動くことができるようになって、陽子は楽俊を手伝って竈《かまど》の大きな鉄鍋に水を注《さ》しながらきいてみた。桶《おけ》をささえる右手にはまだ包帯を巻いているけれども、その下の傷はすでにほとんどふさがっている。
竈に薪《まき》を放りこんでいた楽俊は陽子をふりあおいだ。
「父ちゃんはいねえ。母ちゃんは出かけてる」
「旅行? ずいぶん長いね。遠く?」
「いんや。近くの里まで。ちっと仕事があってな。一昨日《おととい》には帰ってくるはずだったんだが、帰ってこねえとこを見るとこきつかわれてるんだろ」
では、母親がすぐにも帰ってくるかもしれない、と陽子は心のなかにきざんでおく。
「お母さんの仕事は?」
「冬のあいだは女中だな。普段は小作農。夏でも呼ばれりゃ、雑用をしにいく」
「そう……」
「陽子はどっかに行く途中だったのか?」
問われて陽子は少し考える。どこかに行こうとしたわけではない。ただ歩いていたのだとは言えなかった。
「……ケイキという人を知らない?」
楽俊は毛並みについた木屑を払った。
「人探しか? そいつは、この辺の人間か?」
「どこの人だかはわからない」
「気の毒だが、おいらにゃケイキなんて知り合いはいねえな」
「そう。──ほかにすることは?」
「ない。病みあがりなんだから、座《すわ》ってな」
言われるまま、陽子はだるい身体を椅子《いす》にあずけた。
小さなダイニング・キッチンの床はむき出しの土で、置かれたテーブルも椅子も、ぎしぎしいうような古い品物だった。
陽子が座った隣の椅子には布でくるんだ剣がおいてある。片時も離そうとしない陽子を、楽俊は別段とがめなかった。それがどういう思考によるものかはわからない。
「陽子はどうして」
楽俊はつややかな毛並みの背中を見せたまま子供の声で聞いてきた。
「男のナリをしているんだ?」
寝間着に着がえていたので、バレているだろうとは思ってはいた。
「……ひとり旅は危険だから」
「そうか。そうだなぁ」
言って土瓶を持ってくる。なにかを煎《せん》じたらしい芳香が狭い部屋にたゆたった。湯呑みをふたつ、テーブルの上に出してネズミは陽子を見あげた。
「どうしてその剣には鞘《さや》がねえんだ?」
「……なくした」
答えながら鞘をなくしたことをいまさらながら思い出した。虚海《きょかい》を渡るときに剣と鞘とを離してはいけないといわれたが、鞘をなくしたことが原因でなにかの災難が降りかかってくる気配はない。やはりあれは、珠《たま》をなくしてはいけないという、そういう意味だったのだろう。
ふうん、とつぶやいて楽俊は椅子によじ登る。その動作は幼い子供に酷似《こくじ》している。
「どっかで鞘をあつらえてやらねえと、せっかくの剣が傷《いた》むぜ」
「……うん。そうだな」
気のない声で答える陽子を、楽俊は真っ黒な目で見あげた。ちょっと小首をかしげる。
「陽子は配浪《はいろう》から来たって言ってたよな」
「……そう」
「それは慶国《けいこく》じゃなく、槙県《しんけん》の東のほうにある村のことじゃねえのか?」
そういえば、そんな場所だったかと、陽子はぼんやり思いながらだまっている。
「あのあたりで大きな蝕《しょく》があったんだってな」
これにも陽子はだまっていた。
「海客《かいきゃく》が打ちあげられて、逃げたとか」
陽子は楽俊をにらむ。無意識のうちに手が伸びて剣をつかんでいた。
「なんの、話」
「十六、七の女で、紅《あか》い髪をしてる。剣を持ってるんで注意が必要。剣には鞘《さや》がない。……陽子は髪を染めてるだろ」
柄《つか》をにぎって、視線をただ楽俊に注ぐ。ネズミの表情は読みとれない。そもそも人間よりは数段とぼしい。
「役所からそう連絡がきた」
「……それで」
「そんな怖《こわ》い顔すんなって。突き出すつもりなら、役所の人間が来たときに突き出してらぁ。大枚の賞金もついてたことだしな」
陽子は布をほどく。立ちあがって抜き身の剣を晒《さら》した。
「なにが目的」
ネズミはただ真っ黒な目で陽子を見あげて、絹糸のような髭《ひげ》をそよがせる。
「短気な奴だなぁ」
「わたしを匿《かくま》った目的はなに」
ネズミはのほほんとしたしぐさで耳の下をかいた。
「目的、って言われてもなぁ。行き倒れになりそうな奴をほっとけねえだろ。だからめんどうみたし、めんどうをみた以上、やっぱ役所に突き出す気にはなれねえじゃねえか」
そんな言葉をうのみにはしない。たやすく人を信用すれば必ず後悔《こうかい》するとわかっている。
「海客は役所に送られる。そこで待ってるのは良くて軟禁だし、悪けれりゃ首を刎《は》ねられる。どっちかってぇと、陽子は後者だろうな」
「なぜ、そう思う」
「変な術をつかうんだろう? 護送されるところを妖魔に襲わせて、そんで逃げたって話じゃねえか」
「あれはわたしがやらせたわけじゃない」
「だろうな」
ねずみはあっさりうなずいた。
「妖魔がそうそう簡単に人に従うかい。陽子が呼んだんじゃなくて、陽子を狙《ねら》ってきたんだろう。ちがうかい」
「……わたしには、わからない」
「それにしても陽子はやっぱり悪い海客だろうな。妖魔に狙われるような人間だからな」
「……それで」
「県庁に送られれば十中八九命がねえ。逃げるのは当然だが、どこへ逃げればいいのかわかってるのか?」
陽子は答えなかった。
「わかってねえんだろう。こんなところわうろついているようじゃな。──エンコクに行きな」
陽子はまじまじと楽俊の顔を見返した。ネズミの顔にはなんの表情もない。少なくとも陽子には読みとることができなかった。
「……どうして」
「人が殺されるのを見過しにできるかい」
言って楽俊は笑った。
「死刑が当然の悪党に同情するほどおいらだっておひとよしじゃねえ。だが、海客だってだけで殺されちゃあ、たまらんだろ」
「悪い海客なんでしょう」
「役人はそう考えるだろうって話だ。海客に良いも悪いもあるもんかい。珍しいものは気味が悪いような気がするだけだろ」
「悪い海客は国を滅ぼすって」
「迷信だ」
あっさりと言った口調にかえって警戒心がわいた。同じように迷信だといった人がこの国にいた。それは人間の女だったけれども。
「それで? そのエンコクとやらに行けば、助かるわけ」
「助かるさ。エンコクの王は海客を疎《うと》まない。あそこじゃ海客もほかの人間と同じように生活してる。海客に良いも悪いもない証拠だろ。だから、エンコクに行くのがいいと思う。──その物騒《ぶっそう》なもんをしまいな」
陽子は、ためらい、ためらい、とりあえず剣をおろした。
「座んなよ。茶が冷めるぜ」
言われてようやく陽子は椅子に座る。楽俊の意図がわからない。海客であることがばれた以上、早々にここを出ていったほうがいいのだろうが、せめてエンコクについて詳しい情報がほしい。
「このあたりの地理がわかるかい」
陽子は首を横にふった。楽俊はうなずき、湯呑みを抱えて椅子を降りる。剣をにぎったままの陽子の足元まできて、土間に屈《かが》みこんだ。
「ここは安陽《あんよう》県、鹿北《かほく》ってところだ」
楽俊は簡単な地図を土の上に描いていく。
「ここが虚海、槙県はここ。配浪ってのはこのあたりらしいから、陽子は南西、つまり巧国《こうこく》の中央へ向かって歩いてきた案配になる。逃げるんなら巧国を出なきゃならないのに、これじゃ逆だ」
陽子は地図を複雑な気分で見おろした。これを信じていいのか。地図のどこかに嘘《うそ》がないか。疑いながらも、くいいるように見つめる。これが今もっともほしい情報だった。
「西隣が北梁《ほくりょう》県、これをまっすぐ西に向かうと青海《せいかい》てぇ内海に出る。青海を渡った対岸が雁国《えんこく》だ」
楽俊の小さな指が略図と、驚くほど達者な文字を書いていった。
「まず、北梁を目指せばいいんだな……」
「そうだ。最終的に阿岸《あがん》てぇ港につけばいい。阿岸からは雁国へ船が出てる」
「……船」
船が使えるだろうか。港を監視されていたら、みすみす網《あみ》のなかに飛びこむようなものだ。
「だいじょうぶだ」
陽子の独白を見透かしたように楽俊は笑う。
「槙県から巧国の外に出るには、まっすぐ北に行って山越えして慶国へ出るのがいちばん早い。役所の連中もまさかこんなところへは来ないだろうが、と言ってたしな。道を間違ったのが幸いしたんだ。手配書がまわっているが、赤毛の若い女、とある。そのめだつ剣さえなんとかすりゃあ、そうそうばれやしねえだろうよ」
「……そう」
陽子は立ちあがった。
「ありがとう」
楽俊はキョトンと陽子を見あげる。
「おい。まさか今から出かける気かい」
「急ぎたいから。世話になってばかりで悪いけど」
楽俊もまた立ちあがる。
「待ちな。よくよく気の短い奴だなぁ」
「でも」
「雁国に言ってそれから、どうする。手当たりしだいに人を捕まえて、ケイキって奴を尋ねて歩くのかい。船の乗り方はわかるのか、雁国に保護を求める方法はわかるのか?」
陽子は視線をそらす。目的地が定まっただけでもこれまでの旅に比べれば格段に先行きがひらけたような気がしていたのに、それでもなお乗り越えなければならない困難がこんなにある。そうしてこれはおそらく、実際に直面する困難の何十分の一にも満たないのにちがいない。
「なにごとにも準備ってもんがあらぁ。そう焦るな。ここで焦ったところで、後になって行き詰まる。な?」
陽子は頭を下げた。心のどこかで罠《わな》を恐れる自分がいるが、とりあえずここでは楽俊を頼りにするしかないのだ。
「そんじゃ、飯にするか。とにかく体力をつけろよ。阿岸まではひと月はかかるんだからな」
陽子はもう一度頭を下げた。
少なくとも、体力が完全に戻るまで。それまでには楽俊の意図も分かるだろう。単におめでたいのか、それとも深い策略があってのことか。雁国に──阿岸に、行かねばならない。それを知られている以上、楽俊の真意だけは見届けないわけにいかないのだ。