延は部屋に入ってきながら苦笑する。
「着がえがすんだか。うちの家人は格式張るのが好きでな。うっとうしいがおとなしく言うことをきかないとやかましい。すまないな」
延がくだけすぎているのではないかと思ったが、口調がほほえましかったので陽子は微笑《わら》うにとどめた。
「楽俊、そんなもの脱いでもかまわんぞ」
そういわれて楽俊である若者はひきつった笑いを浮かべる。
「お気遣いなく。──台輔《たいほ》は」
「もう来るだろう」
言ったところに扉が開いた。扉が開くと風が通って潮の匂いが部屋に満ちる。
「戻ったな」
扉の内側には必ず衝立がある。その影から姿を現したのは金の髪をした十二、三の少年だった。
「どうだった」
「さすがに王宮へまでは登れてねえみたい。……珍しいな、客か」
「俺の客ではない。おまえの客だ」
「オレの? 知らねえ顔だな」
少年は顔をしかめて陽子たちに目を向ける。
「そんで? あんた、何者だ」
「その品のない言葉づかいをあらためよ」
「よけいなお世話って言葉を知ってるか?」
「おまえが後悔するのだぞ」
「へぇ。あんたもついに嫁《よめ》さんをもらう気になったか」
「冗談ではない」
「……んじゃ、あんたのかーちゃんか?」
「おまえは俺の妻《つま》か母でなければ礼儀を思い出せんのか」
ためいき混じりに言ってから、延は呆気《あっけ》にとられている陽子をふり返る。
「礼儀を知らぬ奴で申しわけない。これが延麒《えんき》だ。六太《ろくた》、こちらは景《けい》女王でいらっしゃる」
「げ」
一声言うなりその場を飛び退《の》いて、少年は陽子を見あげる。がまんがならずに陽子は噴きだした。声をあげて笑ったのは虚海《きょかい》を渡ってからはじめてのことかもしれない。
「早く言えよ。ったく、根性が悪いな」
「おまえに言われたくはないな。お隣が楽俊殿」
かるく笑ってから延は表情を引きしめる。
「で、慶《けい》国の様子は」
問われて少年のほうも顔を引きしめた。
「キ州《しゅう》がさらに落ちたようだな」
紀州、と楽俊が文字を書いてくれた。勝手に翻訳《ほんやく》がなされるので、筆談はどうしてもやめられない。しゃべるぶんには翻訳に任せて問題がないが、それでは文字を読むことができなくなる。
「これで残ったのは北の麦州《ばくしゅう》だけだ。舒栄《じょえい》は相変わらず征《せい》州にいる。軍は膨《ふく》らんで、あれじゃ王の軍は太刀打ちできない」
王師、と楽俊は書いた。「王の軍」のことだろう。
「すでに偽王軍が麦州に向かってる。麦候の軍が三千、とうてい対抗できないだろうな。多分時間の問題だ」
言ってテーブルの上に座り、そこにあった木の実をかじる。
「──で、どこで景王を見つけてきた」
延がかいつまんで事情を話す。延麒はだまって耳をかたむけ、渋い顔をした。
「痴《し》れ者が。麒麟《きりん》に人を襲わせたな」
「黒幕のほうは放っておいても問題がない。ただ、景麒《けいき》だけは返してもらわねばならぬ」
延麒がそれにうなずいた。
「急いだほうがいいぜ。景王がこっちにいることを悟られたら殺されかねない」
「あの」
と、陽子は口をはさんだ。
「わたしにはよく理解できません」
延はただ片眉をあげてみせた。
「わたしはなにひとつわからないまま、こちらへ連れてこられました。延王がわたしを景王だというのならそうなんだろうし、どこかの王がわたしを狙っているのだと言うのなら、そうなんでしょう。ただ、わたしは景王になんかなりたいとは思いません。景王だと認めてほしくて連絡をとったわけじゃないんです。妖魔に追われるのがいやで、倭《わ》に帰る方法を知りたくて延王に助力をお願いしたかっただけなんです」
延と延麒は顔を見合わせた。すこしのあいだ、沈黙が降りる。口を開いたのは延だった。
「陽子、かけなさい」
「わたしは」
「座《すわ》りなさい。そなたには長い話を聞いてもらわなくてはならない」