「お許しを」
言って顔を覆《おお》ったのは金の髪をしたほうで、そしてそれはいつか山道で会った女だった。
(やはり、あれが塙麟《こうりん》……)
「それはもちろん、儂《わし》に対して言っておるのだろうな」
死神のような人物が頭にかぶった布を落とした。現れたのは老《ふ》けた男の顔だった。皺《しわ》は深いが、体が大きいので老人という言葉はそぐわない。その肩には色鮮やかなオウムがとまっている。
「無力そうな娘だ。殺しそびれたのは口惜しいが、山に迷いこんでしまえばそうそう長生きができるとも思えん。──だが、すでに契約を交わしていたとは誤算であったな」
男は淡々と言う。ひどく感情の欠落した声だった。
「まあ、良い。そのうち山で野垂《のた》れ死ぬか、里に紛れこんで捕まるだろう。いずれにしても、台輔《たいほ》」
「はい」
「次にはこんなことでは困る。儂のために、是が非でもあの娘をしとめてもらう」
男が言っている「あの娘」とは、おそらく陽子のことだろう。だとしたら、この男は。
(……塙王《こうおう》……)
「しかし、気の弱そうな小娘だの。たいした王の器量とも思えぬ。わざわざ蓬莱《ほうらい》まで出向いたが、あんな主人しか見つからなんだか」
そう言って、男が無表情にふり返ったのは一頭の獣だった。
外見は鹿《しか》に似ていたが、角《つの》は額に一本だけ。強《し》いて言えば一角獣に近いかもしれない。鬣《たてがみ》は濃い金、毛並みは落ちついた黄色、背中には鹿のように模様があって、そこが不思議な色に薄く輝いて見える。
「よくよく主運がないと見える。のう景台輔」
(景台輔……ということは、あれが景麒《けいき》)
あれが麒麟《きりん》という生き物なのか。
これは配浪《はいろう》から護送される途中、山の中での風景だろう。すると陽子が景麒だと思ったのは塙麟、ジョウユウは景麒であるこの獣を見て「台輔」と呼んだのだ。
「小娘とおっしゃるのなら、捨て置けばよろしいのではありませんか」
言ったのは塙麟だった。
「巧《こう》の民がふたり、死にました。どうか、こんなことはおやめください」
涙をこぼして塙王を見あげる顔は、いつか山道で見た表情と同じものだ。
「人というのは死ぬものだ」
対する主人の言葉にはどこまでも感情が窺《うかが》えなかった。
「天はお許しにならないでしょう。きっと巧は報いを受けます。主上とて例外ではないのですよ」
「すでに報いを受けるだけのことはした。いまさら言うても始まらぬ。儂の命運は尽きた。巧は沈む。ならば慶《けい》にも沈んでもらう。必ず景《けい》王には同行してもらうぞ」
「そこまで胎果《たいか》が憎《にく》いのですか」
塙王はかるく笑う。
「憎くはないが、きらいではある。あちらでは子供は女の腹から生まれるのだぞ。知っておるか」
「知っております。それがなんだというのです」
「汚らわしいとは思わぬか」
「思いません」
「儂は思うな。女の腹から生まれた以上、胎果はすでにこちらの人間ではない。こちらにいるべきではないのだ」
「天はそのように思ってはおられません。だから胎果の王がいるのではないですか。天の意志に背《そむ》くことこそ、汚らわしいことです」
塙王はしのび笑う。
「儂とおまえは気が合わんようだの」
「そのようです」
「だが、おまえの主《あるじ》は儂だ。儂の命には従ってもらう。小娘を追って必ずしとめよ。生かして巧から逃がしてはならん。──そうだ、慶との国境に王師を置かねばな。きっと小娘は景に戻ろうとするであろう」
「汚らわしい小娘など、捨て置けばよろしいではありませんか。小娘と言い、たいした器量ではないといいながら、どうして殺してまでも玉座《ぎょくざ》から遠ざけようとなさるのです」
「胎果の王は巧の周囲には要らぬ」
そっけなく言われて塙麟は深いためいきを落とした。
「……それで、景台輔をどうなさるおつもりです」
「景麒は舒栄《じょえい》にくれてやる。麒麟がおれば諸侯も異論なかろう」
「当座はそれでだまされても、必ずじきに怪しみます。角を封じられて景台輔は人の姿になれない。喋《しゃべ》ることさえできません。そんな宰輔《さいほ》がどこにおります。もうおやめなさいませ。天がこのような過《あやまち》ちを見逃すはずがございません」
「見逃してくれとは言わぬよ」
「みごとなお覚悟ですが、主上は民のことをお忘れです」
「巧の民は運がなかったのだ。儂が死ねば、次に賢帝が立つやもしれん。そのほうが長い目で見れば民のためかもしれんぞ」
「なんということをおっしゃる・・・・・」
塙麟は再び顔を覆った。
「儂は王の器量ではなかったのだろうよ」
塙王は淡々と言う。表情の欠落した声は、ひょっとしたら彼がすべてをあきらめているからかもしれない。
「おまえも天も王を選び損ねたのだ」
「そんなことはございません」
「そういうことだ。儂の在位は五十年で終わる。雁《えん》が五百年、奏《そう》が六百年近く。雁と奏に比べればほんの短い治世だが、儂にはこれが限界だった」
「今からでもお心を変えられれば、もっと長くなりましょう」
「もう遅い、台輔」
塙麟は深くうつむく。
「儂はこの大役につまずいたのだ。地方の衛士《えじ》で終わるはずだった儂が法外の好運に恵まれたものだが、儂にはそれをうけとるだけの器量がなかった。たかだか五十年しか持ちこたえられなんだ」
「たかだかなどとおっしゃらないでください。短命の王はいくらでもおります」
「おるな。例えば予《よ》王だ。予王に限らず慶は常に波乱の国、巧よりも国も数段貧しい。不心得な民は雁や奏と比べて巧は貧しいなどと言うが、もののわかる者は慶に比べればましだと言う」
「雁国や奏国とて、最初から豊かだったわけではございません」
「わかっておるよ。そう思うて儂とてできる限りのことはした。だが、儂が進んだだけ延も宗《そう》も先に進む。それで誰もがいつまでも言うのだ、巧は雁よりも奏よりも貧しい、とな。これは言いかえれば、儂が延や宗に及ばぬということだ」
「そんなことは、決して」
「延や宗にいまさら張り合おうとも思わぬよ。だが、慶は別だ。慶は巧よりも貧しい。これで新王が践祚《せんそ》して、巧よりも豊かな国になったらどうする。巧だけが貧しいままで、儂だけが愚帝《ぐてい》といわれることになったら」
「それで天命を失うほどおろかなことをなさるのですか」
塙王は塙麟の問いに返答しなかった。
「倭《わ》は豊かな国、それは海客《かいきゃく》の話を聞けばわかる。そして倭より帰還した延の国もまた豊かだ。胎果は儂たちこちらで生まれた者とはちがう。その胎果の延の国があそこまで豊かで、どうして景王を恐れずにいられようか。胎果はなにか国を治める秘訣を知っておるのかもしれん。だとしたら、どこまでも儂だけが」
「なんというおろかなことをおっしゃるのです」
塙王はほのかに苦笑する。
「まったくだ。おろかなことよな。──だが、もういまさらあとには退《ひ》けぬ。いまさら退いたところで、巧の命運は変えられまいよ。どうせ巧は滅び、儂は死ぬ。ならば、慶の胎果にも同行してもらう」
──バカな。
「なんて、おろかな!」
思わず声をあげて、はたと幻が途切れた。陽子は力なく剣をおろす。
「……バカなことを」
自分だけが取り残されたくはないから、でも自分が周囲にあわせるよりは、周囲を引き留めたほうが楽だから。よくあることだ。ほんとうによくある。だけど。
「仮にも一国の主《あるじ》が国民の辛苦《しんく》も顧《かえり》みず、そんなおろかなことのために犯してはならない罪を犯したのか」
どれだけの人が巻き添えになって命を失ったか。これで巧国が滅べば、被害はその比ではないだろう。
──人はおろかだ。苦しければ、なお、おろかになる。
延麒《えんき》の声がよみがえった。
雁国と奏国にはさまれて。延王を宗王を意識して。たかだか五十年と彼は言ったが、彼にとってはどれほどに長い歳月だったのだろう。
そしてこれは陽子がいつ踏み込んでもおかしくない道だ。雁国と奏国にはさまれたのは慶国も同じ。塙王と同じことを陽子が考えないと言えるのか。
「……怖いな」
陽子はつぶやいた。
「ほんとうに怖い・・・・・」