「人がいて、国がある。国をたばねるものが必要になる。そうだな?」
「はい」
「こちらでは王をおく。国主は政《まつりごと》を行う。政を行うのは国主だから、その施政が必ずしも民の望みにかなっているとは限らない。むしろ権は人を奢《おご》らせる。往々にして国主とは民を虐《しいた》げる者だ。国主ばかりが悪いとは言わん。国主は権をにぎったときから民ではない。民の気持ちはわからなくなる」
「延王は希代の名君だと聞きました」
延は苦笑した。
「そんなことが言いたいのではない。急《せ》くな。──国主は民を虐げる。では、民はどうすれば救われるのか?」
「そのひとつの形がミンシュシュギとかいうやつだろう」
言ったのは延麒《えんき》だった。
「民が自分たちのつごうで王を選び、つごうに合わなくなればやめさせる」
「そうですね」
延が再び語る。
「ここではもっとべつの方法が行われている。国主が民を虐げると言うのなら、民を虐げないものを国主にすえればよい。そこであるのが麒麟《きりん》だ」
「麒麟が民を代弁して王を選ぶ……?」
「そう考えても誤りではない。ここには天意《てんい》というものがある。天帝がいずこかにかおわし、地を造り国を造り世の理《ことわり》を定めたという。麒麟は天意によって王を選ぶ。天命の下った、それが王だ」
「天命……」
「王は国を守り、百姓《ひゃくせい》を救って安寧《あんねい》をもたらすべきだという。それを可能にするものを麒麟が選ぶ。選ばれたそれが玉座《ぎょくざ》につく。天が麒麟を介して名君を玉座にすえるというわけだ。俺を名君などと呼ぶ輩《やから》もいるが、それは嘘だ。王はすべて名君たる資質を持っている」
陽子には相づちの打ちようがなかった。それでだまっている。
「しかしながら、倭《わ》にも漢《かん》にも名君などというものはいくらでもいた。それでも総じて国が安らがなかったのはなぜだと思う?」
陽子はすこし首をかたむける。
「名君と言われた人でも、なにかのはずみで道を踏み外すことがあります。たとえそれがなくても、どんな名君でもいつかは死ぬ。死んだあとを継ぐものが名君だとは限らない。──だからじゃないでしょうか」
「そのとおりだ。では、名君が死なぬよう、これを神にすえればいい。そうすれば問題の半分が解決する。たとえ死んでも、子に玉座を継がせず、必ず麒麟に選ばせれば良い。道を踏み外すことがないよう監視すればいい。──ちがうか」
「それは……そうですが」
何に対してか、延はひとつうなずく。
「俺は今、この雁《えん》州国を任されている。俺を王に選んだのは延麒だ。誰がどのように望もうと、どれほど努力しようと、麒麟に選ばれなければ王にはなれん。麒麟は王を直感で選ぶ。男が女を選ぶのに似ている。あるいは、女が男を選ぶのにな。俺は胎果《たいか》だ。こちらで育った人間ではない。そんな俺やおまえのように王のなんたるかを知らずとも、麒麟に選ばれればそれが王だ。天命は下った。これを変えることはできん」
「わたしも……? 帰るわけにはいかないんですか?」
「帰りたくば、帰るがいい。それでもおまえは慶《けい》東国の王だ。それだけは否定することはできぬ」
陽子はただうつむいた。
「麒麟は自らが選んだ王と盟約を交わす。決してそばを離れず、命に背かぬという誓約だ。王が玉座についたあとは、王のそばに控えて宰相《さいしょう》を努める」
「延麒も? 宰相なの?」
陽子がテーブルの上に胡座《あぐら》をかいている延麒を見ると、延はかすかに笑った。
「こう見えてもな。しかも延麒を見たあとでは得心がいかぬだろうが、麒麟は本来慈悲の生き物だ。麒麟は正義と慈悲とでできている」
延麒は顔をしかめた。それに主人は苦笑して、
「台輔《たいほ》の進言することは、正義と慈悲の言葉ばかりだ。だが、正義と慈悲だけで国は治まらん。延麒が止せというのを無視して無慈悲なまねをすることもある。国の正義のためには止むをえぬ。延麒の言うままになっていては国が滅ぶからな」
「……そう……でしょうか」
「例えばここに罪人がいる。金目当てに殺生《せっしょう》をした罪人だ。罪人には飢《え》えた妻子がいたとする。すると延麒は助けろと言う。だが、罪人を見逃しては国が成りたたん。哀れには思うが罪人は断罪せねばならん」
「……はい」
「もし俺が仮に罪人を殺すよう延麒に命じたとする。延麒はそれをできぬ生き物だが、結局奴は文句を言いながらも罪人を殺してくるだろう。麒麟は王の言葉には絶対に服従する。絶対に、だ。麒麟は王の言葉に逆らうことができぬ。たとえ死ねという命令でも、真実命じれば逆らわぬ」
「じゃ、選ぶだけ選んでもらって、選ばれたあとは勝手にやってもいいんですか?」
「難しいのはそこだな。正義と慈悲は天の意志だ。天は正義と慈悲によって国を治めてもらいたいと思っている。それを代弁するのが麒麟だろう。だが、正義と慈悲だけでは国は治まらぬ。不正だ、無慈悲だと思いながらもやらねばならぬことがある。ただ、正義と慈悲だけでは国は治まらぬ。不正だ、無慈悲だと思いながらもやらねばならぬことがある。ただ、それが度を越すと天命を失う」
陽子はただ延を見る。
「国のために無慈悲なまねもするが、無慈悲が過ぎると王の資格を失う。しょせん王は天から玉座を借り受けているに過ぎん。王が道を見誤り、天命を失うと麒麟が病む。この病を『失道《しつどう》』という」
延が宙に書いた文字を陽子は目のなかに取りこんだ。
「王が道を失ったために麒麟がかかる病だ。王が性根を入れ替えればよし、さもなくば麒麟の病は治らぬ。だが、問題が性根ではな、入れかえようと思うて入れ替えられるものでもない。麒麟が『失道』にかかって、王が治してやった例は少ない」
「治らないとどうなる……?」
「そのままでいれば死ぬな。そうして、麒麟が死ねば王も死ぬ」
「……死ぬ」
「人の命は短いな。王が死にもせず、年老いることもないのは、神籍に入ってているからだ。王は神だ。だから死なぬ。王を神にしたのは麒麟だ。だから、麒麟が死ねば王も死ぬ」
陽子はうなずく。
「麒麟を治す方法が、性根を入れ換えることのほかにもうひとつある」
「それは?」
「それは、麒麟を手放してやることだ。最も簡単なやり方は王自らが死んでやればよい。王が死んでも麒麟は死なぬ」
「すると、麒麟は助かる?」
「助かるな。……景麒がそれだ」
言って延はかるく息をつく。
「慶国の先王は予王《よおう》という女王だ。王といえども本性は人、資質はともかく決して道を誤らぬわけではない。予王は景麒に恋着した。景麒のそばに女を寄せぬ。女房を気取って悋気《りんき》見せる。果ては度を越して、城から女を追放し、国から女を追放しようとした。景麒がかばうのでさらに度を越す。国に残った女を殺そうとして景麒が病んだ」
「それで……?」
「女王が道を失ったのは景麒恋しさの故だ。景麒を死なせて嬉《うれ》しいはずがなかろう。少なくともそれほど度は失ってなかったということだな。予王は蓬山《ほうざん》に登った。登って退位を申し出た。天はこれを許し、景麒は予王から解放された。そういうことだ」
「その人は……?」
「王になるということは死んで神に生まれなおすということだ。王でなくば生き続けることができぬ」
それで、慶国の先王はそのことによって死んだのだ。
「おまえはすでに景麒によって王に選ばれた。玉座に就《つ》くには蓬山に登って天勅《てんちょく》をいただかねばならんが、契約を交わしてある以上、玉座に就いたと大差がない。天命は下った。おまえが景王だ。これだけはどうあっても変えることができぬ。……わかるか」
陽子はうなずいた。
「王には国を治める義務がある。おまえが国を見捨てて倭《わ》に帰るは勝手だが、王を失った国は荒れる。国が荒れればまちがいなく天はおまえを見捨てるだろう」
「すると、景麒が失道にかかる。そうしてわたしは死ぬわけですね」
「おそらくな。ただ、きれいごとを言えばそれだけではない。問題は慶国の民なのだ。王は統治するだけではない。災異を鎮《しず》め、妖魔を鎮める役目を担っているのだからな。妖魔が出没する。嵐がおこり、日照り、水が荒れる。疫病が流行《はや》り、人心は惑う。国土は荒廃して民は苦吟《くぎん》をなめることになるだろう」
「国が滅ぶ……?」
「そうだ。景麒はなかなか予王を見つけられず、長く空位の時代があった。そのあいだに国土は荒れ人民は疲弊《ひへい》している。やっと王を見つけて玉座にすえたが、これの治世は六年しか続かなかった。しかも末の何年かは失道で国の安寧を失っている。そこでまたこの騒ぎだ。雁《えん》国や巧《こう》国に近いものは国を捨てて逃げてきたが、慶国には未だ大多数の民が残っている。こうしているあいだにも妖魔と災異によって苦しんでいるだろう。救う方法はひとつしかない」
「一刻も早く正当な王が玉座に就くこと……?」
「そのとおりだ」
陽子は首をふった。
「とてもむりです」
「なぜだ? おまえはまさしく王気《おうき》を備えていると思う」
「まさか……」
「おまえはおまえ自身の王であり、己自身であることの責任を知っている。それがわからぬ者に王者の責任を説《と》いたところで虚《むな》しいだけだし、自らを統治できないものに国土を統治できようはずもない」
「わたしは……だめです」
「しかし」
「尚隆《しょうりゅう》」
と延麒が咎《とが》める声を出した。
「むり強《し》いするな。景王が慶国をどうするか、それは王の勝手だ。言ったことの責任を取る覚悟さえあれば、好きにしていいんだ」
雁はためいきをついた。
「そのとおりだ。──だが、これだけは景王にお願いする。慶国の民を可能な限り救おうと心がけてはきたが、雁の国庫も無尽蔵ではない。王の国を救っていただきたい」
「……考えさせてください」
陽子はうつむいた。今はとうてい顔をあげていることができなかった。
「失礼ですが」
口をはさんだのは楽俊だった。
「陽子を狙っている王が誰だか、それはおわかりなんですか」
延は延麒を見、延麒は視線をそらした。
「……誰だと思う?」
「なんとなく……。おいらは塙《こう》王じゃねえかという気がしています」
陽子は楽俊を見た。難しい顔をした若者は一拍おかないと気のいいネズミにむすびつかない。
「どうして?」
「確証があるわけじゃないけどな。陽子は山を走りまわってボロボロになってたろう。襲ってきた妖魔がぜんぶ麒麟の使令だとは思えねえ。かといって山に住む妖魔があんなにいてたまるもんかい。半分を使令だと考えても多すぎる。おいらには巧国がかたむいている気がしてならねえんだ」
楽俊が言うと、延がうなずく。
「だろう。実は巧国から延へ逃げこんだ海客《かいきゃく》を渡すように塙王から強い要請があった。巧国はああいう国だから、逃げだしてきた海客が過去にもいなかったわけではない。だが、こんなことははじめてだ。これはおかしいと延麒に調べさせると、どうやら舒栄《じょえい》に金を運んでいるのは巧国の誰か、しかも巧国は荒れている様子《ようす》。これはいよいよ塙王が怪しいと目算をつけたところに、昨日|塙麟《こうりん》失道の報が入った」
「塙麟、失道」
楽俊はつぶやく。若い闊達《かったつ》な顔に苦いものがよぎった。
「……では、巧国は終わりだ……」
「なんとかすることはできないんですか」
陽子が言うと三人は暗い顔をした。
「塙王に知人として忠告することは簡単だが、当の塙王が面会に応じない。たとえ会えても塙王が己の非を自覚しなければどうしようもできぬ。唯一方法があるとすれば、正当な景王が天命を受けて空《から》の玉座を埋めることだ。なにを思って塙王が慶国に干渉をはじめたかはわからぬが、傀儡《かいらい》の王を立て、慶国を牛耳《きゅうじ》ることが目的ならばそれで野望ついえておろかなまねを止めるやもしれん」
言外の言葉をのせた視線を向けられて陽子はうつむいた。
「……時間をください」