半導体部門の幹部が不満をもっていた問題はもう一つあった。厚木工場長の小林の突出した工場運営である。何度も触れたように、小林は労務管理の面では、たしかに見るべき成果をあげた。工場の雰囲気も明るくなったし、生産性も、以前とは比較にならないほどよくなった。小林が提唱した「従業員の自発性と創造性を育てる」という管理方式も、工場全体にだんだん定着するようになった。
毎年この工場で行なわれる〈研究発表会〉を見てもそれがいえる。この発表会は、日曜日開催で、自由参加が原則。技術者、オペレーター、管理職、事務員、パートの奥さんと、従業員なら誰でも自由に意見を発表し、参加できるようになっている。発案者の小林は「はじめは参加者も少なかったが、回を重ねるごとに人数も増え、最近じゃ従業員の半数近い人が自主的に集まるんですよ。一人の発表時間は、一五分と短いが、なかには学会で発表しても恥ずかしくない質の高いものもあれば、ごく身近な問題についての提案もある。こんな楽しい集会はないんじゃないかと、私は思うんです」と、自画自賛する。
井深も、例年必ず集会に出席して、従業員に交じって楽しそうに野次を飛ばしたりするそうだが、こういう雰囲気は、かつての厚木工場にはなかった。そういう意味でも首脳陣が、小林に工場運営をゆだねたのは間違いではなかった。
この成功で、小林は、工場運営に自信をもちはじめた。そして本社の方針に沿って、予算管理を次第に強化していった。小林がいちばん力を入れたのが、ICの取組みにつまずき苦しんでいる半導体部門の体質改善であった。その頃、ソニーでは、川喜田二郎の提唱するK・J法を全社に導入し、会議などに活用していた。小林も、その熱心な推進者であった。
そのこと自体は決して悪いことではない。だが、小林は、それを半導体の開発研究に活用することを関係者に強要した。小林と技術幹部の関係がギクシャクしはじめたのはそれがきっかけだった。その辺のいきさつを塚本哲男は次のように話す。
「K・J法は、既存の考え方を整理してシステマティックにまとめるとか、個人のモチベーション活性には役立つかもしれない。だが、研究開発のように新しいものを生み出す仕事には不向きです。それを小林さんは何がなんでもやれという。ぼく等は、創造はそんな甘いものじゃないと猛反発し、だいぶ議論したんですが、トップの方針だからと強引に押しつけられた。だが、とうとう最後まで定着しませんでしたね」
小林が工場幹部の不評をかった原因はほかにもあった。厚木工場での自分の体験を一冊の本にまとめたことである。四十年代初期、ビジネス書のベストセラーといわれた『ソニーは人を生かす』がそれであった。もちろん、意見を発表するのは自由だし、別に問題はなかったはず。だが、それによって小林の存在は、一躍有名になり、社外のセミナーや講演会に引っ張り出されるようになった。そしてあちこちで厚木工場の建て直しのいきさつ、工場運営のあり方を説いて回った。これがいろいろ誤解を招く原因になるのである。
社外の人には小林のやり方がソニー全体の労務管理であるかのように受け取られた。事実、小林の論理はユニークだった。小林は、社内の管理者の集まりがあると「上役は命令者であってはならない。部下の自発的な働きを助ける人、激励する指導者、もっと平たくいえば、〈激励者〉でなければならない」と、口やかましくいう。その通りかもしれないが、それは理想であって、現実にはそれでは解決できない問題がたくさん転がっている。その辺の理解の仕方が、小林と他の幹部で違っていたのである。小林と親しかった倉橋正雄もこんな感想を漏らしている。
「結局、小林君は理想論者だったんですね。彼はその理想を活かして、厚木で非常におもしろい工場運営をやり評判になった。しかし、ちょっと夢を追いすぎた。そのため、最終的に井深さんと意見が合わなくなり、やめざるを得なくなった。やはり、彼は労務屋さんで、経営者じゃなかったんですよ。でも、彼はあの本を書いたおかげでたいへん得をした。印税もたくさん入ったし、有名にもなりましたからね。そういう意味では後悔していないんじゃないかな」
小林と同じように、自分の理念を追いすぎて、井深の不興をかった人がもう一人いた。研究部長で、世界初の電卓を開発した植村三良である。
植村は、入社以来、コンシューマ商品の開発にはほとんどタッチせず、もっぱら磁気記録の基礎的研究と、研究者、技術者の育成に力を注いできた地味な存在であった。しかし、数学の天才といわれただけあって、デジタル技術には人一倍強い関心をもっていた。それが電子式卓上計算機の開発につながったわけだが、周囲の状況から本格的な商品化にはいたらず消えてしまった。
植村はくやしい思いをしたに違いない。だが、植村はそんなそぶりをあまり人に見せなかった。もう一つ独創的な製品の開発に熱中していたからだ。それは工作機械の加工物の寸法を電磁気的に読み取り、表示する特殊なスケールである。
「開発をはじめたのは、四十年末頃でしたかね。当時、工作機械の自動化はかなりすすんでいるのに、肝心の加工物の寸法はこれまでの計測器を使ってはかっている。これじゃコンマ何ミリという細かい寸法は正確にはかれませんよね。そこでマグネの技術を使ってはかれる物差しを開発してみようと思ったわけ。ところが、その話を井深さんにしたら、コンシューマ以外のものに手を出すなというんです。でも強引につくりあげ『これ売り物にしましょうや』といったら、それほどやりたいなら研究部を捨てろといわれた。ここまできたら、私もあとに引けない。そこで研究部を解散しちゃった。その頃本社の研究部には一〇〇名ぐらいの部下がいたが、みんなほかのセクションに散っていきました」(植村三良)
いつもの井深らしからぬ対応ぶりだった。植村はソニーマグネスケールという別会社をつくってもらった。昭和四十四年夏のことである。
ところが、ソニー首脳陣は、なぜか新会社のトップに技術担当常務の鳩山を据えた。植村にまかせておくと、また道楽仕事をはじめかねないと思ったのだろうか。この人事は、植村の自尊心を傷つける結果を招いた。植村は、鳩山に好感をもっていなかったからである。電卓開発のとき、井深は鳩山をお目付役に据え、植村たちの独走を規制するように仕向けていた。鳩山は、何かにつけて、植村の仕事のすすめ方に水を差す。植村も負けずにやり返す。両者とも、頑固という点では、甲乙つけがたいと定評がある。それだけにちょっとしたことでも、激論に発展することがしばしばあったようだ。
そんないきさつがあっただけに、植村は反発を感じたのだ。そして「怨みの鳩山さんとは、一緒に仕事はできない」と、さっさと辞表を出し、ソニーを去っていった(その後、ソニーマグネスケールは、順調に業績を伸ばし、この分野で七〇パーセントのシェアを占めるほどになった。その後、デジタル式の光学スケールが出回るようになっても、六〇パーセントの市場占有率を維持して、ソニーの収益に大きく貢献した)。