盛田が社長に就任した昭和四十六年は、日本の電子工業界にとってもたいへんきびしい年であった。原因は世界の景気動向に大きな影響力をもつアメリカ経済の沈滞である。その兆候は数年前から少しずつ顕在化していたが、四十五年になると一気に表面化し、アメリカ国内は深刻な不況ムードに覆われてしまった。こうした事態は対米輸出依存度の高い日本経済にも当然はね返ってくる。その現われの一つが繊維に代表される日本製品の輸入制限であり、テレビ、チューナー、フェライトに対するダンピング容疑であった。
このため電子機器の対米輸出は不振の一途をたどった。その穴を国内市場で埋めるべく、家電各社は猛烈な販売競争を展開しはじめた。その結果、過当競争から生まれた大幅な値崩れが消費者に拭いきれぬメーカー不信感を植えつけ、カラーテレビの不買運動まで引き起こすにいたった。
幸いソニーだけはアメリカ国務省から〈ダンピングの事実なし〉と認定され、国内での販売についても、公正取引委員会の調査によって、ソニーの価格は容認できる範囲を越えていないことが証明された。とはいえ、業界を取り巻く環境はきびしく、将来についてまったく予断を許さないというのが実情であった。それだけに、盛田も、業務の簡素化と徹底した合理化によって体質を強化し、積極的な攻めの経営を展開する方針を固めていた。
その具体策の第一弾が、アメリカでのカラーテレビ現地生産の決定であった。工場建設予定地はカリフォルニア州サンディエゴの郊外と発表された。四十六年一二月のことであった。これを知った業界関係者は「この試みは失敗する。経済常識を逸脱しているからだ」と、一様に冷めた視線を向けた。というのも、その頃アメリカ最大のテレビメーカーであるRCAやゼニスは、人件費の高騰と生産性の低下に手をやき、組立工場を、労賃の安い東南アジア、中南米の発展途上国に移しはじめていたからだ。にもかかわらず、盛田はアメリカでの現地生産を強行しようとする。その無謀さを業界関係者は笑ったのだ。
ソニー内部にも危惧の念をもった人が多かった。四十六年初頭、盛田の意向を受けて現地の実情を調べたテレビ事業部の幹部たちも、経済性、労働事情などから判断して、現地生産は非常にむずかしいとの考え方を経営会議(常務会)で報告したほどであった。だが、井深も、盛田も、「このプロジェクトは絶対にやらなければいかん」と、強気の姿勢を崩さなかった。近い将来おきるであろう日米貿易摩擦を少しでも緩和するには、それが最善の策だというのである。
こうして八月には、サンディエゴ・プロジェクトが正式にスタートし、工場建設計画の検討が本格的にはじまった。八月一六日、世界の経済界をゆるがすような大問題がもちあがった。アメリカのニクソン大統領が〈ドル防衛〉の最後の切り札として、一〇パーセントの輸入課徴金設定と、金・ドルの交換停止を軸とする緊急的な経済政策を断行すると発表したことであった。
〈ニクソン・ショック〉と呼ばれたこの一連の政策は、各国の対ドルレートの切り上げを迫ると同時に、戦後四半世紀もつづいたブレトン・ウッズ体制およびガット体制の崩壊を意味する大問題である。当然、世界の為替市場は一時パニック状態に陥ったが、西欧諸国がいっせいに変動相場制に踏みきったことで、なんとか収拾することができた。日本も一〇日後の八月二八日、遅ればせながら、はじめて変動為替レート移行を決めた。こうして昭和二十四年四月以来、二二年間続いた一ドル三六〇円レートに終止符を打つことになった。
当初、この問題は、経済基盤の脆弱な日本の産業界に深刻な影響をおよぼすと予測されていた。しかし、その年の一二月、多国間通貨調整のため、十ヵ国蔵相会議が、ワシントンのスミソニアン博物館を舞台に開かれ、話合いが行なわれた。その結果、日本円は、一ドル三〇八円で合意をみた。これによって心配された影響は最小限に抑えられる見通しがつき関係者をホッとさせた。この一連の措置がソニーのサンディエゴ進出を容易にしたのだから幸運というほかなかった。つまり、盛田の強気の戦略は思わぬことから道が拓けてきたのである。
一方、木原を中心とするソニー開発陣は、トリニトロンカラーテレビの成功を一つのバネに、次の目玉商品ともいうべき家庭用VTRの開発にひそかに取り組んでいた。そのたたき台になったのは、四十六年一〇月、松下電器、日本ビクターと共同開発した四分の三インチ統一I型カラービデオ・カセットプレーヤー〈Uマチック〉(販売価格二三万八〇〇〇円)であった。
このVTRは、木原たちが開発した原型をもとに、松下電器、日本ビクターの技術者が話し合ってスタンダード化をはかった最初の機械である。このときソニーは、自社の保有するビデオ機器の特許やノウハウを全部公開(クロスライセンス契約)するという大きな犠牲を払っている。VTRを一日も早くホームユースの商品にしたいと願えばこその譲歩であった。
そんな思いをして世に送り出したVTRも、期待に反し、いつの間にか業務用に化けてしまった。技術も市場も未成熟だったのだ。この苦い経験もムダではなかった。次の飛躍につながる貴重な試金石になったからだ。また、松下電器、日本ビクターの両社は、規格統一の話合いの場を通じて、ソニーのVTR技術の最新のものに接することができた。しかも、特許は、クロスライセンス契約を結んだため、自由に使える。これが両社の技術力を高めるうえで大きく貢献したことは紛れもない事実だった。それがのちに、べータ対VHS戦争としてソニーを窮地に追い込む有力な武器になろうとは、ソニー首脳陣も、開発者の木原も知る由もなかった。