「ペンネームですか。それは」とよく聞かれる。
遠藤などという姓は鈴木、森田という姓と同じぐらいに日本には掃いて捨てるほどいるが、周作という名はそんなに多いほうではないだろう。
「ペンネームですか。その名は」
と聞かれるたびにいいえ本名です。と始めは首をふっていたのだが、その質問が少し多すぎるのに気がついた。考えてみるとこの名から受けるイメージと実物のイメージが余りにちがうからだろう。村松剛が何処かに書いていたが、彼が一高生の時、たまたま私の書いた評論を読み、その名からキザな色の白い青年を想像していたらしいのだが、いざ、会ってみるとゴボウのように色の黒い、ガラガラ声の男だったのですっかり情けなくなったと言うのだ。
周作などという名は剣豪、千葉周作を連想させて甚だ照れくさい。私が後に狐狸庵などという雅号をつけたのは、周作からくるイメージを払いのけるためでもあったが、わが身のほどをよく知っているからでもある。
以来——
「ペンネームですか。その名は」
と聞かれると、「はア」と答えることにしている。
「本名は臭作というのですが、それでは何ですので、こういう名にしました」
臭作のほうが周作よりずっと気が楽で、私にむいている。
自分にある固定したイメージをつくられると息苦しい感じがしてならない。私は三年に一度ぐらいの割合で堅くるしい小説を書くので、それが発表されたあと、読者から私が、世界、人生に悩みぬいたようなイメージを抱かれるのではないかと思うと、たまらなく嫌である。実際にそんな手紙を読者からもらうと、自分が偽善者のような気がして、精神衛生上とてもわるい。
だからそのあと私は色々な形で自分が軽薄な人間であるということを自分の読者に知らせようとする。周作が臭作になりかわろうとするのはたいてい堅苦しい作品を書いたあとだ。
明治大正の小説家のなかには生活、社会、人生の大苦悩を背負って生きたようなポーズを持続していた人がいるが、私にはそういう作家の苦渋にみちたような顔写真をみると、心中、本当かなあという気がしてならない。本当に人間、悲しい時はワンワン声を出して泣かないものさ。私は女がワンワン泣いている時はあまり、こたえない。何もいわず、黙って、やがて、ひとしずくの泪がすうっと頬に流れた時のほうがこたえる。
私はペンネームはつけなかったが(狐狸庵は別)、ペンネームをつける人の心理はなかなか面白いと思う。その人の趣味や心理がその名にかなり、あらわれているからだ。
今の若い作家で漱石とか鴎外などというペンネームを自分につける人はほとんどいないだろう。第一、恥ずかしくて、とてもとても、名のることはできない。
最近のペンネームで一番、秀逸なのはかの有名なイザヤ・ベンダサン氏であろう。ベンダサン氏が何者であるかは未だに確定していないようだが、私は私なりに一人の日本人を考えている。そしてイザヤ・ベンダサンは筆名であると考えている。
イザヤ・ベンダサンは風雅な愉快な筆名だ。日本のジャーナリストの誰も気づいていないが、これは「いざや、便、出さん」をもじったものだからである。