マリリン・モンローの懐かしい映画『帰らざる河』を見終ったとき、はなはだ奇異な感にうたれた。
というのは、この映画はマリリン・モンローと一人の男と、その男の子供の三人が小舟をあやつって様々な危険にめぐりあう話なのだが、小さな小舟に一日中、のりながら、モンローの演ずる女が一度も用を足していない。用を足していたのかも知れぬが少なくとも映画のシーンには出てこないのだ。
映画だから当然だ。そんなもの別に映す必要はないといえばそれまでだが、三人しか乗れぬ小舟で、男ならとも角、女がどうして用を足したか、ふしぎに思うのも確かなのである。
この頃の映画となると、平気で用を足す場面をうつすようになった。この間、見た高倉健の『吹雪の大脱走』では、一人の男性俳優が便所で堂々と放尿しているのを、そのまま映しており、さすが私も何だかイヤな気がした。こういうのを文字通り、クソ・リアリズムというのだ。
しかし用を足すということが人間の運命に影響を与えることがある。事実かどうか知らぬが、秀吉は小田原攻めの時、箱根の山中で家康と共に並んで放尿しながら関東移封を命じたという。先祖伝来の三河から未開の関東に家康を移すのは秀吉の策謀だったが、それをわざと一緒に放尿している時に言ったというのが、また術《て》である。俗にいう「関東のつれ小便」というのはこれだ。
男ならどこでも用を足せる。勿論、罰金を覚悟なら町中だってできる。しかし女の場合は必ずしもそうはいかない。私の知っている女子学生で手洗いを我慢したためにジンウエンにかかった娘がいる。娘を持つ親は気をつけられたい。
昔、女の子と歩いている時、女の子の返事が次第にアイマイとなり、何となく、心ここにあらざる表情になるを見て、あッ、トイレに行きたいのだなあと、すぐ気づくことが時折あった。
今の娘ならはっきり、トイレに行きたいの、と言うだろうが、私の若かった頃の娘たちは非常につつしみ深かったから、そんなことを口にしない、我慢している。そして一緒につれだっている青年(かつての私)が喫茶店に早く入ってくれないか、早く入ってくれないかと心のなかで念じているのが手にとるようにわかる。
今、思えばワルいことをしたと思うのだがそういう時、私は、
「気持いいなあ、まだ歩こうよ」
などと言い、眼前に喫茶店があっても決して入らなかった。向うは恨めしげに店をチラッとみる。
「そこでですねえ、君はカミュの小説、好きですか」
わざと、私はキザでムツかしい話を持ちかける。カミュでもサルトルでも何でもいいのだ。こういうキザでムツかしい話を持ちかけられた時、女の子はトイレなどと言えるもんじゃない。それを計算しているわけだ。
「彼の『シジポスの神話』を見るとですねえ、結局、人間に耐えることを教えているんですね」
「ええ」
「耐えること……スバらしいなあ」
向うは必死に耐えている。トイレに耐えている。まさにカミュ精神を実践しているのだ。
ギリギリ限界一歩前で私は喫茶店に入る。而して彼女が脱兎の如くトイレに前進するのをみてニタニタと笑うのだ。何と悪い人間ではないか、この私は。