この前、書いたことだけれど、もう少し詳しく説明すると、私は子供の時、少し低能なところがあった。
自分がなぜ、少し低能だったかというと、今でも一つのエピソードを記憶しているからである。
小学校一年の時、母親が私と一緒に庭に花の種をうえてくれて、
「毎日、水をやると芽が出てくるわよ」
と教えた。
私は大悦びで毎日、学校から帰ると、この花畠に如露で水をかけていたが、ある雨の日も、家に戻ると傘をさしたまま、いつものように如露をもちだした。
懸命に土に水をかけてやっていると、家の窓からそれを見つけた兄が、
「あッ、あいつ」
と言って、母に知らせにいった。
母もびっくりして、私を家に入れ、
「雨の日は、水をやらなくていいのよ。わかるでしょう」
と言った。
私はしばらく考え、
「あッ、そうか」
と叫んだそうである。
この思い出は記憶にあるし、今でも兄からからかわれる。
それから、こういうこともあった。
やはり小学校一年生の時、母から始めてお使いに行ってこいと言われた。
風呂敷につつんだおはぎ入りの重箱を近所の知り合いに届けるお使いだったが、出がけに、
「いいこと。重箱は向うにわたすんだけれど、風呂敷は持ってかえるのよ」
母は何度も何度もそれを繰りかえした。私は心のなかでフロシキ、フロシキと呟きながら、向うの家に行き、たしかに風呂敷をもらって、
「そうだ。頭の上にのせ、その上に帽子をかぶればいい」
と子供心にも名案を思いつき、頭に風呂敷をおいて、その上から小学校一年生の真新しい帽子をかぶった。
そこまではよかったのである。
さて、家に戻る途中、向うの歩道でやはり知りあいのおばさんがやって来るのを見た。
「周ちゃん、今日は」
とおばさんは遠くから声をかけた。
私は帽子をぬいで、こんにちはと言った。
家に戻ってみると風呂敷は頭になかった。今日はと頭をさげた時に、その頭からズリ落ちたのに気がつかなかったのである。
こういうことが、たびたび、あったから、私の家では私を使いにやらなくなった。兄はいつもそれについて不平を言っていた。
所帯を持ってから、もう低能どころか、すっかり悪知恵のついた私はこの思い出を利用した。それは家人に、
「棚のものを取って下さい」
とか、
「これを運んで下さい」
と頼まれると、必ず、ウッカリしたように何か一つを落してこわすのである。(但し安物に限った)
家人はそのうち、呆れ果てて、もう物を頼まないようになった。
歳末の大掃除の時なども私は手伝ったことはない。引越しの時もしかりである。
「かえって、足手まといになりますから、何処かに出かけて下さい」
と家人は言う。
だから私は十二月三十一日はたいてい映画館に行く。映画から戻ると家中の掃除ができている。頭は使いようさ。