これだけしか書いてない。だが六年前私は始めてここを読んだ時、他の頁にくらべて北の描写に何となく奥歯にもののはさまったような感じがあり、北独得の精彩あるユーモアに欠けているのでハテな、と首をひねった記憶がある。(ナニカ、カクシテイルナ)と、そこは同じ筆もつ身、第六感にぴいんと来たのだ。後年、北と親しくなってから色々と陰で調べてみると、果せるかな、この六感は当っていた。何かなければ「私はただその金を受けとるだけのつもりだったのに」などと態※[#二の字点、unicode303b]、書く筈はない。
文中に出てくるAという人は北と同じ精神科医の相場博士のことで、その夫人は民芸の高田敏江さんである。北はこの相場博士の紹介状をもらってハンブルグの日本人、Y氏の宅をその日、たずねたのであった。呼鈴をチリンチリンと鳴らすと、誰かの足音がして扉があいた。扉をあけたのが、他ならぬ後の北夫人——Y氏の令嬢だった。北はその日は温和《おとな》しく振舞い、出された紅茶などもズウズウ音をたてんよう飲んで船に引きあげたが、夜半、決するところあり、翌日、またY氏の家をたずねた。
Y家ではヨレヨレのズボンこそはいておるが、育ちよさげなこの青年に令嬢とその妹君をつけて町を案内させた。夜半一同ナイトクラブに赴いたが、ここで北は令嬢とダンスをおどり、三度、彼女の靴をふみつけ、その美しい顔をしかめさせた。令嬢には全く、この男に関心はなかった。
この黙殺に憤激した北はその夜一人になるとハンブルグの町でかなり痛飲したらしいが翌日、出帆を前にしてまたY家を訪問した。仏の顔も三度とやら、令嬢は笑顔こそみせていたが心中、「早く帰ってくれないかなア、この人」と考えていた。令嬢は自分が将来、文士などになる男と結婚するとは夢にも考えていなかったし、文士になる男などは三悪——肺病、貧乏、極道——をやる連中で、そんな男の生涯の伴侶になるなど真平ゴメンだったそうである。(以上、夫人の談話による)
北はアルコールの力を借り勇気をつけると歌を歌うと言い、美空ひばりの『マドロスさん』と『ステテン節』などを歌った。北はあれで歌はなかなかウマく、子供の時、学芸会でよく独唱などしたと言う。令嬢は哀調ある彼の日本の歌を聞き、思わず涙ぐんだ。感傷は愛情と変り、こうして二人は婚約したのだが、このことは『どくとるマンボウ航海記』には一行も書いていない。
「どくとるマンボウ」が出て、『夜と霧の隅で』で彼が芥川賞を受け、その令嬢と結婚式をあげた頃、悲しい哉、私は病床に伏す身であり慶応病院の一室で療養中でめでたい二つの式にも出席できなかった。私の隣室にはKという慶応の神経科の若い医師がやはり入院していたが、このK先生は自分は北杜夫とかつて同じ研究室にいたと言い、
「あの人は、変ってましたなア」
としみじみ呟いた。どう変っているかと聞くと、北はここの研究室にいた頃から、もう一人の変った男と二人で新宿で飲んでは伊勢丹の前で一人が逆立ちをしたり猿の真似をしたりすると、もう一人が通行人に手を差しのべて見物料を要求したと言うのである。