だが安岡は我々に口だけで江戸趣味を養えと言うのではなかった。実は自身で、その江戸趣味をひそかに実践していたのである。その話は彼の『築地小田原町』という作品に詳しいが、作品は別として彼自身が白状した話によると、江戸趣味を養うべく、まずそれまで住んでいた家を引きはらって、下町に部屋を借りようと思いたったそうである。安岡としてはまず小股の切れあがった三味線のお師匠さんの二階をかり、前は白魚泳ぐ隅田川、遠くに桜の花かすみ、昼さがり近所の子供たちのおさらいする三味の音ききながら、徳利を枕元においてうたたねをする——まるで『若さま侍』の冒頭に出てくるような江戸趣味あふれた情況を胸に描きつつ下町を捜しまわったのであるが、やっとみつけた部屋は寒く、わびしく、聞えるのはブリキを叩く散文的な音。そして夜ともなれば、首と胸とが、痛がゆくなり、あわてて灯をつければ南京虫が逃げ走る。とてもとても「江戸趣味は辛かった」そうである。
そういうわけで留学を終えて帰国した私にはかつてダブダブの復員服を着て「文学をやるには、まず江戸趣味を養わねばいかんな」そう怒鳴っていた彼が『悪い仲間』や『ガラスの靴』の作者だとはどうしても思えなかったのは当然である。
だが久しぶりに会った彼はすぐ自分の仲間に私を紹介してくれた。それは「構想の会」というグループで後の「第三の新人」の母胎となったものである。目黒の飲み屋の二階で毎月一度ひらかれるその集まりは庄野潤三、小島信夫、近藤啓太郎、三浦朱門、それに安岡、そして評論家の進藤純孝や谷田昇平の八人で結成されていた。吉行淳之介はもちろんこの会の一人だったが清瀬の療養所で病を養い、手術後しばらくしてからやっと顔を出せるようになった。
庄野や小島のほうは文学の話を好んでしていたが、近藤や吉行や三浦や安岡だけだと、ウンチやオシッコの話でその会合は始まり、かつ終ることがよくあった。安岡が二週間も便秘でくるしんだあと、あるビルのトイレで一時間もかかって頑張ると、グワーンというすごい音がしてビール瓶の形とそっくりのウンコが出たという話をすると、皆はひどく感動し、
「うーん。ビール瓶みたいな糞かアー」
とふかくふかく、うなずくのであった。また吉行は女性の前で好んでシモの話をする男がよくいるが、男というものは嫌いな女には決してシモの話をしないものだ。多少でも好意をもった女だけにするものだとその心理を説きあかし、皆を感心させた。このように我々は他の文学者グループのように高邁《こうまい》な論議は一向にせず、ウンチの話ばかりしていたので、ある時、我々に一席もうけてくれた出版社などはビックラして、もう招いてはくれなくなったぐらいである。
安岡は私より一年先輩だったから、私には文学以外のことでも色々と教えてくれた。教えてくれるのはいいが、彼には人のことにケチをつける悪い癖があり、その眼からみると私の服装、趣味、言葉づかい、何でもダメなのであった。私がやっと貯金して洋服をつくり、それを着て彼にみせると、彼はひどく悪趣味だとケチをつけた。私がやっと古ぼけた家を手に入れ、友人たちを招待すると、安岡は私が死んだ時の葬式を想像し、この部屋を控室にしてお棺はここから庭に運ぼうなどと梅崎氏などと大声で相談しあい、嫌がらせをするのだった。そしてそれにくらべ、彼は自分の持物はすべて立派で趣味がいいのだと力説していた。
ある日、私は若い女性と神田のロシア料理店で食事をしていた。そのロシア料理店はかなり雰囲気があり、甘い音楽なども演奏されて、その女の子はすっかり陶然としはじめた。私も私で木石ではないから、いい気持で食事をしていたが、突然、理由もないのに不吉な予感が胸を横切ったのである。それはまるでドストエフスキーの小説心理のように原因もないのに、その不幸がまもなく襲ってくることが一つの確信となって咽喉《のど》もとにうかんできたのであった。私は思わず顔を食卓からあげ入口に眼をやった。果せるかな、そこにまるで黄金仮面のように安岡が眼を細め、うすら笑いをしながら、こちらを見ていたのである。